死刑事件の弁護(ホセ・ヤギ事件 2)

            死刑事件について

最近,死刑が予想される事件が頻繁に発生し,報道されている。そのたびに弁護人が非難される。マスメディア報道もそうだし,ブログでも同様である。麻原控訴審弁護団(これは弁護団のフェータルかつケアレスなミスだと思う),ホセ・ヤギ事件,最高裁における安田弁護士の事件,いずれも同様である。「売名行為」「報酬目当て」「被害者の人権をないがしろにしている」などである。そのうえ,最近は,「犯罪被害者の人権」を強調する運動や論調が多い。「適正処罰請求権」という異説を唱えておいて二枚舌的なことは書きたくないのだが,刑事弁護人の職責やその立場のつらさというものを全く理解しないブログが多い。

「売名」 
死刑事件を好きこのんで受ける弁護士は一人もいないと私は断言する。例外は,除名された横山元弁護士だけであろう。刑事弁護関係委員会の役職を務めていると良く分かる。特に国選の場合,弁護士会内における事件の配点は困難を極め(誰も受けない),結局歴代会長経験者や関係委員会の役職者が「汚れ役」として受けざるを得なくなる。ヤギ事件弁護人もおそらくそのような経緯で受任したものと思われる。
死刑事件を受けたら,事務所の評判が低下することは間違いないし,顧問契約解除などもあり得る。事件に掛かる労力,精神的プレッシャーは想像を絶する。私は,ある死刑求刑・死刑判決事件(第1審)の弁護人(複数国選)と面識があるが,経済的に追い詰められる者,病気になる者が相当数いる。

「報酬目当て」 
死刑事件で国選・私選の割合は残念ながら知らない。国選は,驚くほど安い。全国的に耳目を集める事件でも,30万円〜50万円程度ではないか? 私は本気で無罪を争う事件,難しい事件(私選)では,100万円の着手金は頂く(弁護団3人を組めば300万円)。それなりの腕があるのだから当然の金額だと思っている。報酬はとりっぱぐれることもあるが,無罪判決の際は,弁護団1人あたり100万円いただいた。
私選での死刑事件の相場は知らないが,しっかりしたヤクザの抗争事件(前橋で堅気の人を法定的符合説的に殺めてしまった事件←45口径自動式拳銃乱射・山口組内貴広会VS住吉会内中村会浅草ホテル事件) であれば,かなりの金額はもらえるかも知れない。しかし,死刑事件の被告人になるのは,たいてい困窮層だから,おそらくボランティア同然の金額だろう。
国選における高額報酬(例外的な措置)の事例として,麻原国選弁護団(第1審)であるが,弁護団員の労力・失われたお客(お客が逃げる・外の仕事ができない)の損失補償になる金額とはとうてい言えない。

死刑事件は,公判が長引くほど,弁護人は赤字を垂れ流すorz。 

「被害者の人権」
「犯人の人権ばかり声高に主張し,被害者の人権はどうなるんだ」という論調が多い。
1 詳細な分析は省略するが,この種の立論は,短絡が多い。例えば,このたびの「ロペス・ヤギ」事件であるが,被告人が死刑にならなかったからといって,被害者やその遺族の人権が侵害されるわけではない。被害者にも遺族にも「死刑請求権」という人権・権利・法益は存在しないのだ。あるのは「犯人」に対する損害賠償請求権だけである(慰謝料は10億円くらい請求しても良いだろう。しかし印紙代だけで数百万円かかるし,債務名義をもらっても強制執行に値する資産・収入は「犯人」には存在しない)。
私は,これまで「適正処罰請求権」について,このブログに書いてきたが,(幸か不幸か)このような学説は,管見の限り世界中どこにも存在しない。Barl-Karthという民間研究者が「自分の民事事件を有利に展開するため」主張・検討しているだけである。
法哲学レベルでは,「死刑請求権」という学説を構築することも可能であろう。リバタリアニズムに立脚した「刑法の私法化」という考え方で,この説は基礎付けができる。実際,プロテスタント神学を背景とした法哲学では「適正処罰請求権・私法上の権利である死刑請求権」が論じられている。旧約聖書をファンダメンタルに解釈すれば,十分に神学的な基礎付けはできる。森村進先生もホセ・ヨンパルト古希記念論文集で「刑法の私法的基礎付け」を示唆している。
しかし,この見解に依拠すると,「死刑請求権」は被害者・その遺族の権利(私権)であり,「権利放棄」や「権利不行使」によって被告人が死刑にならない可能性がある。
仮に私の妻子が「皆殺し」にされたら,私は「死刑請求権」を行使しないであろう。
このような見解を採用すると,「被害者による検察官の解任請求」や「私人による刑事処罰請求」等の問題が生じてくる。要するに現行刑法の思想的背景や実務運用を根底からぶち壊すことになる。
もちろん,このような見解(刑法の私法化)に対する反論(特別予防,一般予防,カント・ヘーゲル的な意味合いにおける「応報・正義」)も可能ではある。しかし,「予防機能」を強調すると,死刑被執行者の遺族や刑務所在監者に「拘禁や死刑執行に伴うに伴う補償金」を支給しなければならない(昔のライ病者隔離法←漢字変換ができない と同様の問題が生じてくる)というのがその論理的帰結である。

2 上記のとおり,「被害者の人権と犯人(被告人)の人権とは,シュパンヌンクの関係に立たない」ことが多い。しかし,時として,両者の人権の調整が必要になる場合もある。典型的なものとしては「強姦」である。強姦の請求原因事実(検察官主張の公訴事実)に対して,被告人が「和姦」と主張(積極否認? 抗弁?)することがある。被告人の「和姦」の主張を立証するため(要件事実的には,そのような主張・立証責任を被告人は負担していない),<被害者>に対する徹底的な反対尋問を実行しなければならない。その際の反対尋問は,仮借ないものとなる。「即物的」と言っても良い。「性交」があったことは争いのない事実であるが,それが強姦か和姦か究明するためには,セックスの際の「体位」・「被害者の性器が湿潤していたか」・「被害者がどのように抵抗したか」・「パンティの色」・「被害者の性交体験」・「被害者は身持ちがよいのか悪いのか−行きずりの男とすぐ寝るのか」・「被告人の陰茎の勃起時の大きさ」という,それこそザッハリッヒな尋問をしなければならない。弁護人は,そのような主張・立証・反対尋問の義務を負わされるのである。
仮に「被告人が<犯人>」であり「告訴人が<「被害者>」であったとすれば(それは,結局判決で決められる)弁護人の尋問や主張・立証は<被害者の「人権」を著しく侵害した>ということになろう。しかし,被害者が「被害者」であるかどうかは,当該刑事事件の終局判決が出るまで分からないのである。だから,弁護人が「被害者(と認定された人)」の人格権を侵害したとしてもそれは,少なくとも違法性・有責性はない。

3 弁護人が被害者(と目される人物)の人権に配慮することは,弁護人に課せられた被疑者・被告人への忠実義務に違反する。
このたびの「ヤギ事件」で弁護人が「責任無能力・故意不存在」の主張をしなかったならば,裁判所による弁護人解任事由(国選の場合),懲戒事由(国選/私選を問わず)に該当するであろう。

4 検察官も裁判官も弁護人も死刑事件で悩む
ア 検察官は,公判立会した「死刑判決事件」の死刑執行に立ち会う。
イ 裁判官はそのような立会はしないが,死刑判決をできれば言い渡したくないらしい<何か死刑を避けるべき事情がないだろうか?>と合議体で話し合うらしい。「自分(達)の判断で人の命が消滅する」というのは,裁判官にとっても相当な精神的負担であるらしい。この精神的負担のため,「酒浸り」になった裁判官があるという話を聞いたことがある。
ウ 弁護人だって,「私の力量不足で死刑判決になってしまったのだろうか? あそこであのように尋問していれば死刑判決は避けられたのじゃないだろうか」と悩むことがあるかも知れない。
エ メッカ殺人事件の犯人(慶応大学卒業)正田昭(カトリックに帰依した)の死刑執行に,あるカトリック刑法学者(金澤文雄先生だったと思う)が立ち会ったそうだ。その刑法学者は,その後,しばらく体調不良で休職したらしい。