東大法学部の呪い

 以下は,東京の弁護士有志による憲法研究会の際に配布したレジュメである。本当は,憲法25条の考察が課題だったのだが,そのことはすっかり忘れてしまっていた。
 ちらっと触れている「東大法学部の呪い」は故 水波朗先生が「法の理論(成文堂)」に掲載された論文のモチーフである。私が,大学生活・司法試験受験生活を送っていたころは,分析哲学・新カント派的思考が凋落し始め,井上達夫森村進などが読まれ始めたころであった。しかし,そのような潮流とは別にしっかりとした学派が日本にもあることに気づいたのは,司法試験に合格した後であった。ここ数年は,折に触れて,三島俊臣,ホセ・ヨンパルト,水波朗などを読んでいる。
 日本刑法学会(名城大学)の出店で 「犯罪論と法哲学」宗岡嗣郎 著ISBN4-7923-1770-6を購入した。序文などを読んでいる段階なのだが,宗岡嗣郎は同著で「ブルジョア法理論」などという言葉を使っていてびっくりした。が,良く読んでみると,カトリック法哲学(たぶん)の王道を行っているのだ。

http://www.seibundoh.co.jp/book_s/book.cgi?Isbn=ISBN4-7923-1770-6

 法律学(実定法解釈学)は「明晰な概念・定義,分析的な論証」を好む。そのような実定法解釈学の傍ら,法哲学や哲学を学ぶと,その日常的思考性癖からして,難解で曖昧としていそうな思考形式を嫌ってしまう。そういう哲学的思考性癖は,確かに分析哲学や新カント学派と親和性がある。だから,法律家の大部分は,意識的にせよ・無意識的にせよ分析哲学・新カント学派的なのである。そういうのを「東大法学部の呪い」と言っても良いのかも知れない。以下に抜き書きした文章は,決して「ミソもくそも一緒に排斥」したものではないだろうが,碧海純一の著書ばかり読んでしまい,ハイデガやヘーゲルを避けてしまった世代も多いのではないだろうか?

 碧海純一(合理主義の復権)。

19世紀以来のヨーロッパ大陸の,そして,昭和初年以来の日本の,思想の歴史を通観して感ずることは,徒に晦渋難解な言語的煙幕に身を包んで明晰な論証を拒み,理論であると自称しながら実は知性よりは情念に訴えるたぐいの著書論文が間歇的に流行してきた,という事実である。(中略)肩を怒らせて都大路を闊歩していたこれらの時代の思想的旗手たちは,新時代のパイオニアを以て自ら任じ,かれらに喝采を送った観衆たちもそう信じていた。しかし,思想史という長距離ゲームを多少とも巨視的に見るならば,眼前で颯爽と先頭を切っている走者が,実は1周も2周も遅れているということも決して稀ではない。「先祖がえり」型の蒙昧主義が再び時を得意顔に跳梁する今日の言論界において,西欧文化の最大の遺産の一つとしての合理主義が不当に歪曲され,呪詛されている状況は,黙視するに忍びない。


 何よりも大切なことは「私の思考の基盤をなすものは何か?」を反省し自覚することであろう。
 
憲法研究会レジュメ
N県弁護士会 Barl−Karth

第1 日本刑法学会(被害者参加)−最近の刑事立法を見て考えること(共謀罪・被害者参加法・裁判員法)
1 基礎理論(立法の思想的基礎)への考察がない。最近の若手学者の傾向か?
法学者が立法に与える影響(御用学者が多くなってないか?)。
 「被害者参加法」も本当は,「国家刑罰権の本質」にさかのぼって考える必要がある。その考察から,検察官・被害者の役割が派生する。
2 法制審議会の軽視? 法務省・官邸主導型立法・内閣法制局の権威失墜。

第2 最近の情勢−改憲手続法成立
1 反省点。「対案路線(日弁連)」は成功したか?
 「法案のここが悪い,あそこが悪い,ここを直すべきだ(対案路線)」に自民・民主が乗っかり,改良型の法案が策定された。
2 議論は,優れて政治的なものであった。
 「(改憲についての)政治的中立?」,「立法不作為」「手続法と改憲とは別問題」という立場に立って,「安倍の新憲法制定」に切り込むことができなかった。

第3 新憲法の制定(改憲)について
1 日本国憲法をどう捉えるか?
突飛なことを言うようだが・・・。神の意思実証主義
 日本国憲法への私の「信仰」
(1) 日本国憲法は,GHQ・当時の帝国議会を介して,神がその意思によって与え給うたものである(憲法神授説)。
(2) 神の意思に従うべし。
(3) 主権は,神にある。王や人民に与えられた主権は,神からの信託に基づくものである(主権神授説)。
 このような考え方は,「突飛で原理主義的であり反民主主義的である」という批判があるかも知れない。しかし,政治・法思想史を通観すれば,それほど突飛ではない。
 マルクス主義法学もこの裏返しであろう(批判覚悟で言うけど)。
 「人権」「平和」「国民主権」は単に理性的・法解釈学的な考察では基礎付けられない(方法論的反省で後述する)。
2 改正限界論を前面に出すべきか? 出すとすれば,どのような理論的根拠か?
(1) 「平和主義(平和は何よりも大切だ)」は自然法的な基礎があるだろう。しかし「平和主義」から,「正戦論」「自衛戦争」「9条2項削除」を否定すると直線的に結論できるだろうか? 徳永の考え方は,その限度で正しいと言うしかない。改正限界論に乗っかるのは危険である。
(2) 徳永の論法
「9条2項は改正の限界内にある→改正するのが当然」というのが徳永の論法である。これは明らかな飛躍である。
 「9条2項が改正の限界かどうかは置き,2項は良い憲法だ。正しい憲法だ」という素朴な立場を取れば十分であろう。
 そうすると「良い法律・正しい法律とは何か。<良い>とか<正しい>とかという価値判断に学問的根拠はあるのか」という法哲学的問題(正法論・悪法論・正議論)が生ずる。この点は後で論ずる。

第4 方法論的反省(ブルジョア法理論の克服?!)
1 法律家・官僚の暗黙の世界観−新カント学派・論理実証主義
 東大法学部の呪い(水波朗
 「方法二元論」「存在と当為,事実と価値との峻別」「存在から当為は導き出せない」「価値判断に学問的な根拠はない」
2 「ブルジョア法理論」を克服しなければ,恐らく「改憲論」には勝てない。
3 「歴史的・経験的なもの」と「超越的・理性的なもの」
(1) (例えば)「政教分離」は自然法ではなく,日本固有の歴史,歴史からの反省に基礎付けられる。恐らく「憲法改正の限界」ではない。


 口頭補足:国教会制度を法定している国ほど宗教的に寛容な国はない(そういうデレデレな宗教に飽きたらないラジカルな人達が清教徒とかフリーチャーチ<非法定・無認可保育所教会を創って戦争をやったりした訳なのだ)。
 以下のウェッブサイトは,私の考え方と一部似ている。

http://ahsic.com/nikki/Diary/2006_07/07_05.html

 ヘンデルは,ドイツに生まれたルター派信徒であった。ヘンデルは,イギリスに渡り同国に帰化したのだが,「イギリスほどよい国はない。私がルター派だからといって文句を付ける人は一人もいない。」と述べた。ヘンデルは,生涯ルター派だったのだが,彼のお墓はイギリス国教会ウェストミンスター アベイ)に置かれている。


(ちなみにヘンデルが持っている楽譜はメサイア第3部−(信徒の)復活−冒頭のアリアI know that my redeemer livesである)




徳永は,恐らく,そのような宗教社会学的知識もなく,「政教分離」を論じているのであろう。
(2) 9条2項も同様であろう。
ア 日本固有の歴史,歴史からの反省に基礎付けられる(歴史の発展方向?)。
イ 世界史レベルの顕著な経験からも基礎付けられる(「正戦論」・「自衛戦争」最近は「聖戦論」の暴走)。
ウ 60年間,まぁ,それなりにうまくいってきた。だから9条2項は「良い法律・正しい法律」であり,変えてはいけない。
4 「3」のような「人間の・人類の経験」・「歴史(の発展方向)」・「賢慮・洞察」を「学問・法律学の世界」から放逐したことが「近代ブルジョア法学,戦後東大法学部」の失敗であった。
 私自身,大学時代からケルゼン・ウェーバー碧海純一にドップリとつかってきた。キリスト教信仰・神学からその立場を「調整」していたのだが,「新憲法制定」という現実にを目の前にして,困っている。
5 (附論)アメリカ的キリスト教原理主義と政治
 二つの終末論(プレミレニアムとポストミレニアム)
ポストミレニアムとネオコン