私は,原理主義者です(かなり特殊だけど)

私の,10月21日付のエントリーに対して,以下のコメントがありました。

Barl-Karth先生は,もちろん原理主義者ではないと思いますが、この富井氏のページを見るに、これは明らかに過激な原理主義者だと思います(「いわゆる」典型的な根本主義者よりもさらに先鋭的とも言えるんではないでしょうか)。これを原理主義といわないのなら、いったい何が原理主義なのでしょうか(その辺に歩いている人に聞いても、10人中10人が、彼は原理主義だと認定すると思います)。このページの主張に比べれば、ブッシュなんて子どものようなものだと思います。

ブログのコメント欄となると,短い書き込みとならざるを得ず,氏がこの問題を十分に論じ尽くしたわけではないでしょう。しかし,氏の書き込みは,多岐にわたって論じるべき点があり,項を改めて,新たなエントリーを作りました。大きく分けると,
1 私Barl-Karthが原理主義者なのか?
2 富井健先生への氏の評価は妥当なのか?
ということになります。
なお,派生する論点として
3 「私,Barl-Karthが富井師をどう評価しているか。」という問題もあり,これは,「現代社会におけるキリスト教原理主義の位置づけ(特に9.11以降の世界情勢やブッシュの宗教的言動を考えるに当たって)」という問題につながるでしょう。
以下,私見を述べますが,コメント氏(何とお呼びすればよいでしょうか)や読者にある程度の神学的知識があることを前提とします。他方,学術論文的な厳密さは,必ずしも期していません(脱線や飛躍は多々あります)。

1 私Barl-Karthは原理主義者か?
結論を言えば,原理主義者です。少なくとも,私は,自身をそのように位置づけています。また,ある福音派牧師−統一協会対策活動で有名−と温泉で合宿した折,「ヒューマニズム」という言葉を巡って,「Barl先生って−私以上に−原理主義なんだね。」と言われましたので,第三者から見ても原理主義と位置づけられているのだと思います。
原理主義」という言葉は,もともと,ネガティブな評価を含意した言葉ではありませんでした。しかし,いつの間にか,「リベラル」と呼ばれる勢力からマイナス的評価・−一種のレッテル・ラベリング−を含むものとして,この言葉が使われるようになり,最近では,オウム真理教−マインドコントロールに関しテレビ報道で,メソジストのウェスレーが取り上げられていました。−ブッシュやその支持者・それに対立するイスラーム原理主義者との連関で,甚だ良くないイメージがすり込まれてしまいました。この言葉には,「頑迷」・「宗教右翼」・「好戦的」・「排他的」・「非科学的(進化論など)」というイメージが付きまといます。
原理主義」を定義しようとすると大変面倒なことになりますから,やめておきます。私自身の立場である原理主義の特徴(要点)は,以下のとおりです。アメリカ的な原理主義やルターがアナテマ宣言した熱狂主義(その初期からディスペンセーショナリズム・プレミレニアムの影響が大きい)とはだいぶ違うかも知れません。前にも書きましたが,ルター・カルヴァン的な古プロテスタンティズムに依拠する原理主義と言って良いと思います。もしかすると,−意外にも?−現教皇ベネディクトゥス16世にも近いかも知れません。
ア 旧新約聖書と,古代から続く信条・神学を大切にする。これらは,神の意思・神の霊感・神の啓示に基づくものであり,それ故に,2000年以上の歴史に耐え抜いて,今日に伝承されている。
イ 人は,堕罪(原罪)により,道徳的な面のみならず,理性的な面でも決定的に堕落した。それ故,信仰・神学の面はもちろん,世俗的学問(哲学・倫理学法律学等々)においても,また,政治・経済・芸術・文化においても,聖書と聖霊の導きを大切にしないといけない(この考え方は,ローマ・カトリックの主流,ルター派的二王国論からずれるかもしれない。どちらかというと,カルヴァン派に近い。ある意味バルト的でもある)。
ウ 神は,堕罪前のアダムとエヴァに「地を従えよ」(創世記1章28節)と命令された。これは,地上の「管理権」をアダムとエヴァ,その子孫たちに「信託」したと理解できる。この命令は,アダムとエヴァの堕罪後も有効である。私たち人類(特にクリスチャン)は,この神の信託を守り,この世を神の意思に従った社会とするため,それぞれの立場で努力して良き業に励み,家族に正しい信仰を承継し,再臨に備えなければならない(ポスト・ミレニアム。もちろん,このような考え方が,コントロヴァーシャルであること。原理主義の必然的帰結であるかどうかは,問題があることは,自覚しています。それにもかかわらず,私は,ポストミレニアリズムは言葉の真の意味における「原理主義」の帰結であると考えています)。

私がその立場としている「原理主義」はこのような立場です。だから,ブッシュ(この人は,キリスト教を適当−テキトー・イーカゲン−に利用しているインチキクリスチャンであり,すべからく呪い殺されるべきです)や同人を支持する連中とは,全く立場を異にします。私は,朝な夕なに「神よ,ブッシュを早く殺してください。私たちの祈りが虫けらより劣るブッシュの脳天にぶち当たり主の雷−いかずち−をもって即死しますように。あんな馬鹿を支持するアメリカ人の目を覚ましてください」と祈っています。
(続く)

http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050420#p1

私たちは、この数十年間、どれほど風のように移り変わりやすい教えを知ったでしょうか。どれほどのイデオロギーを、思想の流行を…知ったでしょうか。キリスト者の思想という小さな舟は、しばしば、その波によって揺さぶられてきました。そして、ある極端から、他の極端へと投げ捨てられてきました。マルクス主義から自由主義へ、そして超自由主義へ。共同体主義から急進的な個人主義へ。無神論から宗教神秘的な流行へ。不可知論からシンクレティスム(諸派統合)へ。そして、これらはまだまだ続くのです。人間の嘘や欺瞞、そして間違いへと陥れる巧妙なやり方について聖パウロが言ったことが実現するがごとく、毎日、新しいセクトが誕生しています(エフェソ4、14)。教会の信仰宣言(クレド)に基づいた、はっきりした信仰をもつことは、しばしば原理主義者のレッテルを張られます。また逆に、相対主義者たち、―つまり「風のように移り変わりやすい教え」を持たせるままにする―こそ、私たちの時代に唯一尊厳をもった態度であるかのようにみられています。相対主義の独裁者は―彼らは決定的なものを何も知らない、彼らは最終的基準を保留にしながら―まさに、彼ら自身のエゴと欲望を築き上げようとしているのです。