ハーザーの原稿から一部抜粋

笹井編集長から,そろそろ単行本にしようかといわれている。

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真理とは何か(冤罪について)

受難劇
この原稿がハーザーに載るころは、受難節に入るころなので、受難の物語から、書き始めよう。
福音書における「受難」は裁判劇であり、「冤罪(罪のない人が死刑になる)」というものがどのような経過で起きるのかが良く分かる。集団ヒステリーを起こすユダヤ民衆(陪審員?)、口裏を合わせ偽証する証人、陰謀を巡らす祭司長(検察官)、民衆に押し切られ奥さんの諫言にもかかわらず投げやりの判決を出すピラト(裁判官)。何よりも不味いのは、自分のことはどうなっても良いと思っている被告人イエス。弁護人はいない。最悪のシナリオで、これでは冤罪が起きない方が不思議なくらい。
「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
「真理とは何か。」ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。」
ヨハネ福音書18章からの引用である((財)日本聖書協会新共同訳聖書)。

Du sagst's, ich bin ein Koenig.
Ich bin dazu geboren und in die Welt kommen,dass ich die Wahrheit zeugen soll.
Wer aus der Wahrheit ist, der hoeret meine Stimme
Was ist Wahrheit?

(ルター訳聖書ウムラウトエスツェット文字化けを避けるため正書法にした)
ヨハネ福音書におけるイエスとピラトのやりとり(被告人質問)というのは、どう考えてもかみ合っていない。禅問答みたいだ。「真理とは何か」というピラトからの質問に、イエスはお答えにならなかった(黙秘権の行使か?)。
これでは、ピラトが呆れてやる気がなくなるのも当たり前だ。どの福音書を読んでもても、ピラトは無罪判決を出したがっていたことは明らかだが、被告人がこんな風な失礼な態度を取っていては、とても無罪判決は出せない。弁護士から見ると、被告人イエスの受け答えは、最悪だ。こういう受け答えをして裁判官の心証を害さないために弁護人が不可欠なのだが、弁護人はいない。
まぁ、イエスは、弁護者なので(ヨハネ福音書 14:16 父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。 第1ヨハネ2:1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。)十分に自己弁護できたはずなのに自分で自分を救えない。民衆からも(マタイ福音書27:42) 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。」などと馬鹿にされている。

(中略)

刑事司法の絶望的状況
平野龍一という高名な刑事法学者(元東大総長)は、「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」と述べたが、まことにそのとおりである。平野龍一がこのように述べたのは、20年近く前のことだが、その後刑事裁判が良くなったかといえば、悪くなるばかりである。そのうえ、2年後には誰も望んでいない裁判員制度が始まる。前の連載にも書いたが、裁判員制度など誰も望んでいないし、最近の報道によれば、75パーセントの国民が「裁判員になりたくない」とアンケート調査に答えている。裁判所も−本音を言えば−裁判員制度を望んでいない。望んでいるのは、腹黒い法務省だけである。
同じく高名な刑事法学者佐伯千仭は「私の目の黒いうちは裁判員制度は許さない」と述べたそうだが、2006年に98歳で亡くなってしまった。あと3年長生きしてくれれば、裁判員制度も実現できなかったはずなのに残念でならない。
そのうえ、最近の刑法学者は、法務省べったりの御用学者が多くなっている(どこの誰とは言わないがT大のIとか、統計処理について分かっていない首都圏のMなど、東京方面の学者)。私の刑法の師匠も同様で、「共謀罪? 条約ができたのだから仕方ないでしょ」と述べている。昨年、日本刑法学会(立命館大学)で師匠にお会いしたら、昼休み中法務省の役人どもが名刺を渡しながら、ぺこぺこしていた。私の師匠は、(・・・・・・略)。
平野龍一の言葉をパロディすれば、「わが国の刑事法学はかなり絶望的である」と言わなければならない。
こういう問題で影響力・発言力があるのが日本弁護士連合会(日弁連)なのだが、ここもまた絶望的な状況である。本来、緊張関係を保つべき法務省最高裁判所と共同して、裁判員制度を推し進めている。のみならず、弁護士に対して「法テラス」という法務省監督下の組織と契約を結ぶことを強く奨励している。驚かないでほしいが、弁護士は、法務省監督下の「法テラス」と契約しないと国選弁護人の仕事ができないのである。
「法テラス」などといういかがわしい団体と契約するなど、極論すれば悪魔に魂を売るようなものだ。私は、当然のことながら契約を拒否している。国選弁護の報酬も値下げされ、基本料金は7万円、法テラスへの報告を怠ると3万円に減額される。こんな制度のもとで、国選弁護などやってられない。

富山の冤罪事件
「被告人が捜査段階で自白している。」そのことを最初の段階で頭に入れてしまうと、「もしかしたら冤罪・虚偽自白ではないか」という「疑いの目」を持って記録の検討ができなくなる。だから、司法研修所(法律家の養成機関)では、「まず甲号証を熟読せよ。その後に乙号証を読め」と指導している。また、刑事訴訟法でも、証拠書類の取調べは、甲号証が先で、乙号証が後と決まっている。
この事件も、甲号証から丁寧に検討し、被害者が主張する「犯行時刻」と「電話発受記録」を読み比べれば、「何かおかしい」と弁護人は気づいただろう。「何かおかしい」という気持ちで乙号証(自白調書)を読めば、「この自白はどこか不自然だ」と気づくはずである(作り物の自白はどこかしら不自然な部分がある。)そういう気持ちで、拘置所にいる被告人と接見すれば、疑問点を被告人に質問し、「実は、警察に負けてウソの自白をしました」という回答を得られたかも知れない。



Was ist Wahrheit? 遠山の金さん
国民の刑事裁判に対するモデル的な見方は、恐らく、「遠山の金さん」ではないだろうか?
「遠山の金さん」では、番組の冒頭で悪人の悪事が再現される。悪事の目撃者は、他ならぬ「遊び人の金(=実は奉行 遠山の金さん)」である。「遊び人の金さん」は、身分を偽った上、悪人に対してわざわざ入れ墨を見せる。その後、色々の経過を経て悪人がお白州に連行され、「遊び人の金」は、「奉行 遠山左衛門尉景元(通称・金四郎)」に早変わりし、その裁きを受ける。シラを切る悪人に対して、遠山奉行が入れ墨を見せると、悪人は観念し自己の悪事を自白する。この自白を根拠として、獄門とか遠島の刑を言い渡される。
要するに民衆の素朴な「裁判観」は「客観的な動かぬ事実」が存在し、裁判官はそれを「発見」していくというものである。そして裁判官は、全知全能で誤ることはない。
 現実の裁判は、そのようなものではない。例えば、以下のようなものだ。

1 Xという挙動不審な男が、100ギガバイトのハードディスクを保持していたところ、職務質問に引っかかった。「このハードディスクはどこで入手したのか」という質問に対して、男は不合理な弁解に終始する。
2 近くのパソコンショップに問い合わせをすると、「数時間前に100ギガのハードディスクが万引にあった様子です」との店員供述を得て、警察官は捜査報告書を作成する。
3 男は逮捕される。罪名は窃盗である。
4 被疑者は、あっさりと「窃盗」の事実を自白する。
5 しかし、参考人の供述が悩ましい。
 ア 被疑者は善良な人柄で、万引などという大それたことをするはずはないと思います。
 イ 被疑者は、怪しげなマーケットに出入りしていて、「これ、6000円で買ってきたんだよ」と私に述べていました。
 ウ 被疑者は、いつも○○川周辺を散歩しており、「今日散歩していたら、100ギガハードディスクを拾ったんだよね」と不気味な笑みを浮かべながら、私に話していました。
 エ (店員供述) 実は銃を持った男数名が、100ギガのハードディスクを100個ほど強奪しました。警備員が追いかけたところ、強盗団は、河川敷にハードディスクを捨てながら逃走し、捕まえることが出来なかったそうです。Xの写真は確かに強盗団の一人と似ているのですが、うーんよく分かりません。
 オ 被疑者は、私(その筋の人)に対して「おまえ、パソコン屋からハードディスクを100個盗んだそうじゃないか。魚心あれば水心。」と暗に、ハードディスクを1個わけてくれれば、当局にたれ込まないかのようなニュアンスの話をしました。
点でバラバラだ。これら供述からいかなる「事実」を認定すべきか?「窃盗? 贓物故買? 占有離脱物横領? 恐喝? 強盗? 無罪?」 検察官は、20日の勾留期間で「どんな事実があったか」を決定しなければいけない。上司と相談して、「しょうがないから、一番手堅いところで窃盗で起訴したら良いんじゃない?」と決済を受け、取りあえず窃盗で起訴する。
5 公判において、腕が利く弁護人が付く。「ア〜オ」の証人が喚問され、反対尋問でぐちゃぐちゃに粉砕される。
6 裁判官は部屋で記録を検討し、悩む。
先輩裁判官に相談したら、「裁判官は、何事も勉強だよ。裁判員のスローガンも『私の心、私の感性、私の物差しで死刑にします』でしょ。うろ覚えなので、ちょっと違うかも知れないけどさ。○○弁護人は、確かに有能だけれどもね。まぁ、強気に行っても良いんじゃないかも知れないかなぁ、よく分からないけどね。フフフ」
裁判における「事実」・「真実」・「真理」というのは、このような過程で形成されていくのである。

団藤先生の教科書「刑事訴訟法綱要(創文社)」で「動態」と「静態」とか「マイクロコスモス」とか「実体形成過程」という議論がある(平野「二分論」・団藤「三分論」)。この種の議論は,やっぱり実務に入った後に教科書を読んでみるとよく分かる。平野先生の名著「刑事訴訟法の基礎理論(日本評論社)」なんかは,学生時代に読んでみて投げ出したのだが,もう一回改めて読み直してみようと思う。

このような事件を処理するたびに、法律家は、「真理」とか「真実」とか「客観的事実」などと言う概念自体を信じなくなってしまう。
なんだか絶望的な結論になってしまった。