新潟水俣病第三次訴訟

昨日,水俣病の件で新潟日報の取材を受けた。それまでの間,数回にわたり「goサインを出さない限り書かない」ことを条件に取材を受けていた。


http://news.google.co.jp/nwshp?ie=UTF-8&oe=UTF-8&hl=ja&tab=wn&ncl=1106188273


新潟日報の記者は,水俣病事件研究交流集会(水俣市)まで出張取材に来て,私と同僚弁護士が同集会に来ていることも当然知っていたのだが,同集会の記事には,あえて「新潟の弁護士も参加」とは書かず,今日まで「取材協定」を守ってくれた。
これ以上先延ばしにするわけにも行かないし,斉藤先生(木戸病院)の「そろそろアドバルーンを挙げてほしい」という発言もあり,いろいろな情勢に鑑み「goサイン」を出した。私としては,「アドバルーン」のつもりだった。社会面に小さく載るくらいだろうと思っていた。
今朝,妻にたたき起こされた。配達された新潟日報を見せながら「○○○の○○記者から電話だぞ。」などと曰っていた。
「昨日は判例研究会でお勉強した後<おでんどころ童←ここの女将さんの住吉さんとは音楽友達>でお勉強仲間と飲んできて,その後<サカつく5>や<お絵かきパズル>をやって寝不足だし,メディアなんて我が儘でそんな我が儘に付き合うつもりはない。弁護士にも私生活の自由があるのだから,したがって弁護士であるパパにも8時ころまで寝る権利も保障されている。だいたい第九のテキストやアーティキュレーションの研究やカルメンのフランス語の勉強もまだなので宇野徹也先生にものすごく叱られたんだ・・・。」と寝言を言ったら,呆れて階下に帰った。
8時過ぎに起きて階下のダイニングに降り,インターネットの株価ボードを眺めていたら,気配値がどれもこれも下げていて元気が出なかった(tamago先生は株で儲けていて,温泉巡りをしたり,イソ弁−ノキ弁?−を雇う予定と羽振りがよいご様子で,うらやましい。こちらはフジクラ(5803)で10万円以上の含み損が発生した)。ボーッとしてコーヒーを飲んでいるとNHK外数社のメディアから,自宅に電話が掛かる。
新潟日報の記事? これから読みますよ。はぁ,そんなに大きく出ているの?と言って,配達された新聞紙を見たら,一面トップの扱いだった。「アドバルーン」と言ったじゃないか>○○記者。これじゃ,花園に爆弾だよ。

弁護士になって間もないころ(村山内閣政治決着),妻とともに熊本市内の安ホテルに泊まり(肥後随喜とかを土産物屋で売っていたが,夫婦共々その使用法は不明であった)−洋二郎先生から,いゃー暑いね。私も若いころはあったのだが,姉さん女房でもう元気も出なくなってしまったよ−などとからかわれた。夜明けとともに,我が弁護団(Barl-Karth,中村洋二郎)・原告団(南熊三郎さん)・支援団体(高野秀夫さん)は,水俣市チッソ工場の見学・集会に行ったのだが,誰もホテル代を払っておらず,結局私の妻がホテル代を払ったら,残金が200円くらいになってしまったのだそうだ。地元のお巡りさんにお金を貸してもらったらしい。
熊本の患者さんや支援者は,ものすごく明るくて元気がよい。色鮮やかな「大漁旗」をブン回して乗船情宣活動をやったりする。ともかく血気にあふれている。ステージでもごもご言っている社会党(当時)代議士を吊し上げていた。それに比べると,新潟−杉の木と男の子は育たない−の患者さんは,元気がないし何かにつけて内気な感じなのだ。情宣ビラを配るときも「押し・厚かましさ」がない。県民性の違いもあるし,「海漁師」と「川漁師」との気質の違いだろう。
「この訴訟を受けるなら,私が立て替えた2万円以上の宿泊代金を中村洋二郎先生(弁護士)や共闘会議の高野さんから取り立ててくれ」と妻はしきりに要求している(求償金債権はもう時効だよ(^_^))。二次訴訟の原告団長南熊三郎さんも一緒のホテルに泊まり,新潟水俣病の実情をあれこれ私の妻に訴えていたのだが,亡くなってしまった(妻も新聞記事を見て「熊三郎さん死んじゃった」と悲しそうな様子だった)。共闘会議議長の清野晴彦先生も亡くなってしまい,お葬式の際のビデオを見て矢っ張り涙が出た。
そういった思い出や,二次訴訟弁護団の重苦しい・切ない会議の場面が頭の中を駆けめぐり,涙が出てしまった。

妻はさんざん文句をたれたが,それでも妻は普段佩用しない弁護士バッジ(徽章)を引出から見つけ出し,スーツに装着してくれた。

車中でケータイの着信音(マーラー「千人の交響曲」)が数回鳴る。
<事務員さんから,「何時に出所されるのですか?事務所の玄関にテレビキャメラをもったメディアがたむろしていますよ。」>と電話が掛かる。持病(音感神経症)が悪化する。マーラー神経症を増悪させる。

9時30分,某メディアから来電があった。当該メディアは新潟日報同様,これまで取材に応じてきた関係もあり,優先的取材に応じる。スタジオのインタビュー。修習生時代に飲み友達だったT記者がまた支局に戻っていて,スタジオセットの段取りをしてくれた。

インタビュー本番の最中に携帯のバイブが鳴動し,とちってやり直し。

インタビューを終えた後,またしてもケータイに着信があり,事務員さんから「センセ何時ごろ出所されますか。もう押さえきれません」と言うので「あと7分でいける」と答えた。

事務所に安物の自動車を運転したら,民放・各紙記者が周辺にたむろしていて,安物の自動車(ホンダ製)や安物のオーバーコートや安物カバンを全部写されてしまった。どうせ弁護士なんて基本的に貧乏人なんだよゴルァ。

メディアに対して「まぁ,付いてきてください」と対応し,即席のインタビューを受けた(アントニ庵さんの御絵(350万円)を背景に)。

午後5時半,緊急会議を招集し今後の対策を話し合った。

私もこれまで,いろんな修羅場を踏みメディア対応は,外の弁護士より手慣れているつもりだったが,こんなことになるとは思っても見なかった。事務員さんに「こういう事態は予測できたはずです。メディア対応で問題を起こしたことが前にもあったじゃないですか。ともかく段取りが悪いですよ」とさんざん叱られた。

村山内閣政治決着のころは,関西訴訟(最高裁判決)など予想だにできなかった。歴史というのは,予想だにできない出来事の連続であり,「現在」という高見から過去を批判することは正しくない。だから,「政治決着」に助力した「二次訴訟関係者」を非難することはできない。しかし,私たちは,新たな歴史的契機をつかみ取ったのだから,それを基準として新たなアクションを起こすことは,有益なことである。しかし,・・・・・(以下略)。