教皇ベネディクト16世の自然法国際学会に関するあいさつへの論評

Barl-Karth2007-04-16


 聖パウロ ローマ書
 1−18〜 それ神の怒は不義をもて真理を阻む人の,もろもろの不虔と不義とに対して天より顕る。その故は,神につきて知り得べきことは彼らに顕著なればなり,神これを顕し給えり。それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは,造られたる物により世の創より悟りえて明かに見るべければ,彼らに言い遁るる術なし。

 2−14〜 律法を有たぬ異邦人,もし本性のまま律法に載せたる所を行う時は,律法を有たずともおのづから己が律法たるなり。即ち律法の命ずる所のその心に録されたるを顕し,おのが良心もこれを証をなして,その念,たがいに或いは訴え或いは辯明す。
(旧新約聖書 紐育・倫敦・東京 聖書聯盟 刊)
 私は,プロテスタントで,そのうえ,どちらかというとカール・バルトの考えに近いので,上記の聖パウロの言葉は,そのままでは受け入れることができなかった。人間に理性が残存している(神の似姿)としても,それは決定的に堕落しており,信頼することはできない(ルターも同様のことを言っている)。そのような信頼できない理性によって,神の存在や自然法を「認識」することはできない,と考えている。
 そのうえ,法律家としての私は,ハンス・ケルゼンの考え方(法実証主義)を枠組みとしていた。「法は理性の産物ではなく意思の産物である。意思−主権・憲法制定権力−を制限するものは何もない。『自然法』は虚妄である」という考え方であった。

 この考え方は,現在でも私の基本的な思考の枠組みなのだが,ときどき揺れ動く。というか,常々揺れ動く。バルトがあれほど激しい調子でブルンナーに「ナイン」と言ったのは,当時の歴史的制約があったからではないか? ケルゼンだって,同様だろう。

そういうことを考えていたら,

http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/feature/newpope/bene_message192.htm
教皇ベネディクト十六世の「自然法国際学会」参加者へのあいさつ

に遭遇した。

 全文を読んでみた。基本的には,聖トマス・アクィナスを承継したもののように思える。しかし,所々に,より保守的なカトリック主義や前教皇ヨハンネス・パウロス2世(以下「JP2」という)の承継が読み取れる。以下,ゴチック体は教皇の挨拶の引用である。
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 人間が物質の法則と構造を解読する能力や、その結果としての自然に対する人間の支配において、際立った発展を遂げた時代にわたしたちが生きていることは間違いありません。わたしたちは皆、この進歩の大きな恩恵を目にするとともに、同時に、わたしたちの力がもたらす自然破壊の脅威をもますますはっきりと目にしています。それほど目には見えませんが、もう一つのきわめて憂慮すべき危険も存在します。すなわち、物質の合理的構造をより深く認識することを可能にした方法は、この合理性の源泉である、造り主である理性そのものをわたしたちが認める能力をますます弱めているのです。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 ジャーナリスティックに表現すると「科学の行き過ぎへの批判・エコロジー」なのだろうが,教皇は,もう少し深いことをを言いたいのだろう。人間的理性(合理主義?)によって「造り主である理性そのもの」を否定するという恐るべき増長。
 これは,確かに近代以降の傾向だろう。
 
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 物質の法則を知る能力は、存在の中に含まれた倫理的なメッセージ、すなわち伝統が「自然法」(lex naturalis)、自然道徳法と呼ぶメッセージを認めることをできなくしているのです。この「自然道徳法」ということばは、多くの現代人にとって、「自然」の概念のせいでほとんど理解不能になっています。「自然」は形而上学的なものではなく、たんに経験的なものにすぎなくなっているからです。自然がそのままではもはや道徳的なメッセージを示さなくなったことは、方向感覚の喪失を生み出しています。この方向感覚の喪失のために、日常生活における決定が不安定かつ不確実なものとなっています。当然のこととして、このような方向感覚の喪失はとりわけ若者に打撃を与えます。若者はこうした状況の中で人生の根本的な決断を行わなければならないからです。
 こうした認識に照らすなら、自然法というテーマを考察すること、また万人に共通な自然法の真理を再発見することはきわめて緊急の課題であると思われます。使徒パウロも指摘している通り(ローマ2・14−15参照)、この自然法は、人間の心に記されており、したがって現代でもけっして理解不能なものではありません。自然法の第一の一般的な原則は「善を行い、悪を避けよ」というものです。
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 大学生のころ「倫理は自然の中に根拠をもつか」という本を読んだ。この本は論文集なのだが,「進化論」から倫理を根拠付けようとする論考もあった(私は,この論文には反対の見解である)。
 さよう,カトリック主義法哲学によれば,「倫理は自然に根拠をもつ。そして,自然は形而上学的な・或いは存在論的な根拠があり,<存在と当為とには分かちがたい融合がある>」と言うことになろう。
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 これは明らかにただちにすべての人に課された真理です。この原則から、すべての人の権利と義務に関する倫理的判断を規制する、他の個別的な原則が生じます。たとえば、受胎から自然死に至るまでの「人間のいのち」の尊重という原則です。いのちという善は人間の所有物ではなく、神の無償のたまものだからです。「真理を探求する責務」もそうです。それはあらゆる真の意味での人格の成熟のために必要な前提だからです。もう一つの基本的な主体の要求は「自由」です。ただし、人間の自由は常に他者と共有される自由であることを考慮するなら、自由の調和は万人に共通なものにおいて初めて見いだしうるものであることは明らかです。万人に共通なものとは、人間の真理であり、存在そのものの根本的なメッセージである、「自然法」(lex naturalis)にほかなりません。また、次のこともいわずにはいられません。一方で「各人に各人のものを」(unicuique suum)与えることの内に示される「正義」が求められます。他方で、すべての人に、特に貧しい人に糧を与える「連帯」が期待されます。すなわち、より恵まれた人が助けの手を伸ばすことが望まれています。このような諸価値によって、例外なしに守るべき諸規範が表されます。こうした諸規範は、立法者の意志にも、国家が与えうる合意にも依存するものではないからです。実際、このような諸規範はあらゆる人定法に先立ちます。ですから、誰もそれを廃止することは許されません。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ラッツィンガーは,このフレーズにおいて,一遍にいろいろなことを言おうとしている。したがって,ラッツィーの言わんとしていることを,正確に要約することは難しい。
「連帯」てば前教皇(JP2)のポーランドにおける「連帯(ワレサ議長)」を想起させる。それとともに,聖トマスの極めてオーソドックスな自然法理解を示すと共に,リバタニアリズムを排斥しているようにも理解できる。
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 自然法は、基本的権利とともに、尊重すべき倫理的義務がそこから生じる源泉でもあります。現代の倫理学法哲学においては、法実証主義の基準が大きく広まっています。その結果、立法行為はしばしば異なる利害の間の妥協となっています。すなわちそれは、社会的連帯に基づくさまざまな義務と対立する私的な利害ないし意向を法に造り変えることをめざします。このような状況において、次のことを思い起こすのは適切です。すなわち、国内法の次元であれ、国際法の次元であれ、あらゆる法体系は、究極的に、人間そのものに記された倫理的なメッセージである自然法に根ざしていることからその合法性を引き出すということです。結局のところ、自然法は、権力の濫用やイデオロギー操作による欺瞞に対する唯一の有効な防御です。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 ラッツィ! 最先端の法哲学では「法実証主義」は,それほど流行っていないのだよ。しかし,それ以外の見解は賛成する。いや,逆に「自然法」「道徳」「良心」「理性」というものをイデオロギー操作による欺瞞(マジックワード)に使っている連中がいる。正義の青いパンツをはいて(JP2??),このような不届き極まりないアメリカンファンダメンタリズム(ブッシュ ネオコン)をやっつけてほしい。
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 人間の心に記された自然法についての知識は、道徳的良心の成長とともに増大します。ですから、すべての人の、特に公的な責任を有する人の第一の務めは、道徳的良心の成長を促すことです。道徳的良心の成長は根本的なものです。それなしに他のすべての成長は本来のものとならないからです。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 原文(イタリア語)は読んでないから良く分からないが,翻訳がおかしいのかも知れない。「公的な責任を有する人の第一の務めは、道徳的良心の成長を促すことです。」とラッツィーは述べているが,弁護士(私の仕事)は,一応「公的な責任を有する人」なのだが,自分自身の「道徳的良心の成長」は全くないし,他者(お客様)に対して「道徳的良心の成長を促す」なんて,自分自身,欲深く汚れに満ち罪ばかり犯しているので,とてもそんな不遜なまねはできない。聖パウロも似たようなことを言っている。
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 わたしたちの本性に記された法は、人が自由に生き、自らの尊厳を尊重されることが可能になるために、すべての人に与えられた真の保証です。以上述べたことは、家庭について具体的に適用することができます。「夫婦によって結ばれる生命と愛の深い共同体は創造主によって設立され、法則を与えられた」(『現代世界憲章』48)からです。このことに関連して、第二バチカン公会議は適切にもこう述べています。結婚は「神の制定による堅固な制度」なので、「この聖なるきずなは、夫婦と子どもと、社会の善のために、人間の自分勝手にはならない」(同)。それゆえ、人間が作ったいかなる法も、社会が自らの根本的な基盤をなすものを悲惨なしかたで傷つけることなくして、創造主が記した規範を破壊することはできません。このことを忘れることは、家庭を弱め、子どもを罰し、将来の社会を不安定にすることを意味します。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 基本的には賛成する。しかし,カトリックの聖職者は,夫婦経験もないし結婚したこともなし,子どももいないのに,良くもまぁ,こんな説教ができると思う。
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 最後にわたしは、科学技術の上で可能なことが、かならずしもすべて倫理的に許されるわけではないということを、あらためていわなければならないと感じます。科学技術が人間を実験の対象にまでおとしめるなら、それは弱い主体を強者の勝手な意志に委ねることになります。進歩の唯一の保証として科学技術を盲目的に信頼し、科学技術の根底を貫く倫理的な規範を科学技術が研究し発展する場に同時に適用しないなら、人間の本性を犯し、すべての人に対して破壊的な結果をもたらすことになります。科学者の貢献は何よりも重要なものです。科学者は、わたしたちが自然を支配する力を発展させるとともに、人間と人間に委ねられた自然に対してわたしたちが深い責任を負っていることを理解する助けとなるために役立たなければなりません。−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 マルクス(だったかも知れないしレーニンだったかも知れない)は,「共産党員だというだけで,腕の良い医者だと信頼してはならない」と述べた。聖パウロも「クリスチャンだからといって,その人を信頼してはならない」と言った。300日問題など,最近,いろいろな倫理的法律的な問題が起きている。
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