ザッハリッヒであること(水俣病訴訟と福音書)

 新潟水俣病第三次訴訟の訴状は,4月21日土曜日にほぼ完成した。あとは,若干の「当てはめ論」「書式の調整」「訴額の計算」「昭和電工の資格証明の取り寄せ」くらいだ。←今日事務員さんが法務局に取りに行ったら,「閉鎖中で謄本発行不能」とのことだった。事務員さんが,「どうして,閉鎖中なのかは法務局では分かりません。法務局の職員さんは,『昭電に聴いてみてくれ』と言っていました。昭電潰れたんじゃないんですか? 今から仮差しやりますか?」と述べていた。まぁ,この時期だから取締役の変更(新任・再任・解任・退任等々や増資など)で登記申請中で閉鎖してるのだろうと思う。「<御社を訴えるために資格証明を取り寄せたら閉鎖中だったのはどうしてか?>と聴くのも失礼だしな。それに潰れたんなら,債権届け出すればいいわけだし,悪意の不法行為だから優先債権になるかも知れない(根拠不明)。まぁ,27日に取り寄せにいってまだ閉鎖中だったら,登記簿謄本請求書(閉鎖中)を添付書類にするしかないこて」ということになった。
 思えば,昭和電工株売買(空売りもやった)で結構儲けたり損したり(通算するとプラス)のだが,これからは,インサイダーになるので,もう取引はできない。
 記者会見の会場を手配したのだが,弁護士会館も近くの白山会館もふさがっている。仕方がないから,県政記者クラブ記者会見場(県庁舎内)を手配した。しかし,県を被告として訴える記者会見で,県の庁舎を使わせてもらうのも,何か,気が進まない。
 話題を戻す。

 弁護士にとって,「不法行為に基づく損害賠償請求(国家賠償も含め)・契約上の債務履行請求訴訟」の訴状を起案するのは,日常業務であり,それ以上のものではない。
 訴状は,提訴後の記者会見で公表することになるが,本体は20ページ前後のものであり(別紙は結構ある),淡々と要件事実(請求原因事実)を主張し,論理的な構成で配列しているだけである。つまり,日常的に起きている交通事故や酔っぱらいの喧嘩(不法行為)の訴状と余り変わらない(慰謝料増額事由として被告らの行為の悪質性を書いたのが少しだけ違う)。
 もちろん,訴状を書きながら,当職は,被告らへの怒りが募ることもある。しかし,それは依頼者あるいは代理人弁護士の「単なる感情」に過ぎないのであって,そのような「主観」を訴状に記載するのは,プロの仕事(ザッヘ)ではないし,学問的でも実務的(ザッハリッヒ)でもない。

 「人権を蹂躙する驚くべき言語道断の所行」とか,「被告らの態度は絶対に許し難く,その責任を徹底的に追及する」とか,「今後日本からすべての公害がなくなることを祈り(ノーモアミナマタ?)」,などと書くと(こういうのを業界用語で「余事記載」と言う),かえって,ザッヘ(事実)から滲み出てくるものが弱まってしまう。
 そんなことを声高に書かなくてもザッヘ(事実)を淡々と書いていけば,「人権蹂躙」「言語道断」という評価は,自ずと明らかになるのである(私は,存在当為・事実価値二元論者だが,その辺の首尾一貫性のなさは,ご容赦願いたい。この辺の哲学的基盤は,結構いい加減にころころ変わる)。

 答弁書でも「強く否認・断固として否認」「原告の答弁は,不誠実で許し難いものであり,ウソ八百である。」などと記載するのは,良くない(かえって,説得力が減殺される)。

 なぜか知らないけど,このような訴状・答弁書準備書面を起案するのは,「若手の弁護士」か「年寄りになって弁護士登録した弁護士」に多いような気がする。弁護士というのは,しょせん職人である。職人なんだから,仕事(ザッヘ)・事務(ザッヘ)を淡々とやればよいのだよ。そういう「職人根性」がない弁護士が少なからずいることは,遺憾である。
 (このような考え方は,私の哲学的思考がマックス・ウェーバーに,神学的思考がカール・バルトに大きく依拠しているせいかもしれない。)

 世の中で,一番ザッハリッヒな書物は,共観福音書ヨハネ福音書は,ちょっと置いておく)・使徒行伝(新約聖書)かも知れない。ただひたすら,イエス使徒の言行を時系列的に書き連ねているだけで,マルコ・マタイ・ルカの主観(「おお素晴らしきかなイエス」,「イエスに感謝すべきである」・「なんと大活躍の使徒たちよ」←マタイ受難曲のコラールみたいなもの)なんて書いていない。しかし,「亜麻布をまとった少年が裸で逃げ出した(マルコ)」とか「聖パウロの説教があまりに長々しいのでユテコが居眠りして窓から落ちて死んだ(使徒行伝)」などと言うのは,ザッヘではあるけれども「余事記載」のような気がする)。

 私のブログも,基本的には事実(ザッヘ)を淡々と(面白おかしく脚色している面はある)記載しているだけだろう。