言論の「内容」批判と言論の「原因」批判

 これから私が言うことは,東北大学元教授(行政法学のケルゼニアン)柳瀬良幹先生が,行政法雑誌のエッセーで書いたいたことです。
 柳瀬先生は,要旨以下のようなエセーを書いた。曰く−
 偉人や哲人や歴史に名を残す学者と言われる人の言説はその「内容」に着目して批判が加えられる。これに反して,「ある種の人たち(その典型は伝播系)」の言説に対しては,その内容が全然問題とならず,「なぜこの人はこんな文章を書くのだろうか」というメタ的な視点でその原因に(社会学的・精神医学的・心理学的な視点で)検討が加えられる。

 (対抗)言論に対する分析(批判的検討)は法律家の日常的業務である。
 例えば,事件の相手方代理人(刑事訴訟では検察官)から,主張書面(準備書面)が送りつけられる。

 「一体私の論敵は何を言っているのだろう。私の主張の欠陥をついてきたのだろうか?」 と言うような姿勢で論敵の主張を吟味し,分析し,総合する。
 つまり,相手方(論敵)の言説に即して,その「内容」に着目する。

 これに反し,「困った人たち,全然分かっていない人たち,伝播の人たち」の言説は,その内容を一瞥すると「全然無内容」であることが分かる。そうすると,「何を言っているのか」ではなく「どうしてこの人はこんな事を主張するのだろうか」と言う視点(言説の「内容」ではなく,言説の「原因」)に批判の基準が移っていく。
 これらの人たちによる言説の原因分析は,それなりにできるのだが,分析の結果を文章化して公表したりするのは,「利口な大人」のやることではない。「伝播な人」に正面から反論したりすると,その反論は人身攻撃になったり,ヘタをすると「差別」になったりするからである。それに「伝播な人」はしつこいし,同じ事を無反省に呟いたりするから,敵に回すと,とても厄介なことになる。
 東京大学の刑法専攻者は論敵に対して議論の「内容」に即した批判を展開しようとしたらしい。しかし,そのような批判を徹底的にすることは,とても虚しい作業であり単に時間を空費するものにすぎないことを悟り,早々に尻尾を巻いて逃げてしまった(笑)。
 これ(東大の刑法研究中の学部生)に対して,その論敵(笑)は,「勝利宣言」をした。何とも皮肉な結末であった。

 しかし,ちょっとは歴史を振り返ってほしい。

 昔,アドルフ・ヒトラーという人がいた。この人は,色んな本を書いたり大衆に向けて演説したりしたのだが,当初は誰からも相手にされなかった。「あんな伝播は相手にしなくても良い。そのうち潰れる」と当時のドイツ思想界・政治界は考えていた。
 しかし,ヒトラーの考え方はどうしてかよく分からないけれども,ドイツ人民に流布伝播されてしまった。

 私も弁護士会内の論敵−日弁連○○委員会委員−の言説に批判を加えている。それは,労力を要し,虚しい作業であった。この人を相手にする時間があるのであれば,ケルゼンやシュミットやバルトの本を読んで思索したいと思った。実際,弁護士会内においても「このような言説をする人は伝播なのだから相手にする必要はない」という姿勢が大勢を占めかけている。
 しかし,そのような人たちの言論を無視し黙殺することは,歴史に禍根を残すこととなろう。どんなにバカバカしい言論であっても,その内容を解剖し,ザッハリッヒな批判を加える作業も大切ではないのだろうか? かくいう私は,責任回避するのだが・・・。