「被害感情」は違法性論・刑罰論で基礎づけられるか?

(2008/04/28 20:42 改訂)

 判決(量刑の理由)において,「被害感情は峻烈である」と説示し,重罰を基礎付けることがある(光市母子殺害事件等)。
 しかし,法哲学的・刑法基礎理論的に見て,このような説示が正当化されるか,少しく疑問がある。

 刑の重さは,被告人の行為(行為に因る結果も含む,以下同じ)の違法性の大きさによって決まるはずである。
 そうすると,「被害感情が峻烈であること」が違法性の大きさを基礎づける事情でなくてはならない。
 しかし,「被害感情」は「行為」の「反規範性の度合い(行為無価値)」,「法益侵害の度合い(結果無価値)」とは関係ない。
 「被害者の処罰感情」は行為の属性ではない。リステイトすると「被害感情の度合いが大きいか小さいか」によって「行為無価値性・結果無価値性」が決まるというのは,「行為」以外の事情によって,違法性の度合いが変わってくるということに他ならない。「被害者の処罰感情」をば「構成要件」の保護法益(構成要件的結果)と捉えない限り,このような立論は成り立たない。

 刑罰論から考えてみよう。古典的・近代的刑罰論は「刑罰の本質は応報であり,その機能は一般予防・特別予防・(社会防衛)」にあるとされている。
 「応報」と「復讐(感情)」は混同されやすい概念であるが,よく考えると両者は全然違う(ただし両者に関連があることは,後述するヘーゲルの所見を参照)。「被害者なき犯罪」は処罰されるべきである。また,殺される瞬間被害者が「私はこの人を許します」と意思表示-厳密に言うと「『宥恕』という感情の表示」だから「準法律行為」-し,遺族も「この人を許します」と意思表示(同上)しても,当該表示行為(宥恕)によって「応報」という「正義の要請」が消えるはずがない。
 「被害者感情が強い」という事情が「一般予防・特別予防の必要性が高い」を基礎づけるということもあり得ない。

 「被害感情の強さ」が刑罰の軽重を決めるという考え方は,突き詰めると,「刑罰権の私法的基礎付け」ができないと,正当化されないものである。

 慶応大学博士(法学)原田國男君に見解の披瀝を賜りたいものだ。