哲学とは何か?

 「哲学とは何か?」みたいな問題設定で「哲学とは何か?」を考えるというのは,ものすごく野暮な話だと思う。たぶん「有益な解答」・「『おお,なるほどそうだ』と膝を打つような解答」などないと思う。
 哲学(主として法哲学や論理学や刑法の基礎理論やキリスト教神学の哲学的基礎)を多少なりとも勉強してみての感想だが,
 哲学というのは,

1 自己の思考の癖を反省してみる(契機となる学問)。
2 根拠がない・根拠が疑わしい・いかがわしい「こと」・「もの」を自己の思考の暗々裏の基盤としていないか?(を反省する学問)。
3 自己の思考の癖と波長が合う哲学者・思想家との巡り会い(を求める学問)。

ではないか? 

 最近,ある学兄からの勧めもあって,アルトゥール・カウフマンを読み始めた(行為論・責任論・死刑論等々の刑法基礎理論)。「Barl 先生には,カウフマンがあっているあっていると思いますよ。」と前々から言われていた。で,学兄からいただいた抜き刷りを読んで「この人は,私と同じような思考癖だなぁ」と思った。カウフマンの哲学的バックボーンはまだ読んでいないのだが,たぶん「前期ラートブルッフ,ケルゼン(新カント派)→ナチスショック→自然法カトリックに近い)」みたいな軌跡なのだろう。

 カウフマン曰く(転換期の刑法哲学 (成文堂)26ページ「第二章 行為の存在論的構造」から)

 哲学は何といっても「給付知(Leistungswissen)」ではなく,また,哲学がそれであろうとするならば,哲学固有の本質に反することになる。ハイデガーは,このことをきわめて率直に次のように表明している。「哲学では『なにものももたらされることはない』,『哲学によってはなにも始めることはできない。』とくに諸科学の教師や研究者の間で流布しているこの二つの言い回しは,いずれも争い得ない正当性を有するということを確認した表現である。これに反対して,それでも最後には『何かがもたらされる』ことを論証しようとする者は,哲学を,平生,自動車の有益性とか湯治の有効性を判断する日常的な尺度によって評価することができる,といった予断偏見にみられる通俗的な誤解を助長し,それに固執しているにすぎない」と。 

jwaveから電話が来た。朝生より思い切った発言をしてしまった。