裁判所判例にあらわれたる自然法思想に関する一考察

 
 日本の判例における自然法思想について少しばかり調べてみた。
 最高裁のサイトで「自然法」をキーワードにして検索するとほとんどが知財関係の判例ばかりなのだが(自然法則),中には面白い判例や少数意見もあった。


http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/C5B63C99AD179EF449256A850041B1BF.pdf
(法学部生なら誰でも知っている尊属殺人-合憲-判決である。)
裁判官真野毅の少数意見は左のとおりである。
 「夫婦、親子、兄弟等の関係を支配する道徳は、人倫の大本、古今東西を問わず承認せられているところの人類普遍の道徳原理、すなわち学説上所謂自然法に属する」と言つている。しかし、ソレ親子の道徳だ、ヤレ夫婦の道徳だ、それ兄弟の道徳だ、ヤレ近親の道徳だ、ソレ師弟の道徳だ、ヤレ近隣の道徳だ、ソレ何の道徳だと言つて、不平等な規定が道徳の名の下に無暗に雨後の筍のように作り得られるものとしたら、民主憲法の力強く宣言した法の下における平等の原則は、果して何処え行つてしまうであろうか、甚だ寒心に堪えないのである。


裁判官穂積重遠の少数意見は左のとおりである。
日本国憲法前文は、憲法の規定するところは「人類普遍の原理」に基くものであると言つているが、「人類普遍の原理」がすべて法律に規定せらるべきものとは言わない。多数意見は親子間の関係を支配する道徳は人類普遍の道徳原理なるがゆえに「すなわち学説上所謂自然法に属するもの」と言う。多数意見が自然法論を採るものであるかどうか文面上明らかでないが、まさか「道徳即法律」という考え方ではあるまいと思う。「孝ハ百行ノ基」であることは新憲法下においても不変であるが、かのナポレオン法典のごとく「子ハ年令ノ如何ニカカワラズ父母ヲ尊敬セザルベカラズ」と命じ、または問題の刑法諸条のごとく殺親罪重罰の特別規定によつて親孝行を強制せんとするがごときは、道徳に対する法律の限界を越境する法律万能思想であつて、かえつて孝行の美徳の神聖を害するものと言つてよかろう。本裁判官が殺親罪規定を非難するのは、孝を軽しとするのではなく、孝を法律の手のとゞかぬほど重いものとするのである。
 

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/AF11D2ECD43AB06549256A8500316699.pdf

カトリック自然法論者 田中耕太郎長官への当てつけみたいだな。どうも田中長官と真野判事は,仲が悪いようだ。それにしても歴史法学派(?)真野判事は口が悪すぎる。


裁判官真野毅の意見は次のとおりである。
人の作つた法は所詮神の作り給える法には及ばない、という中世紀的な教権万能思想に胚胎しそれと糸を引く彼の自然法やネォ自然法を信奉し、あげくの果てには「自然法に反する憲法の規定は無効である」とまで公然と言明する自信と理性と勇気を持合せない限り、今や独立した日本国に生起するすべての法律問題は、悉く日本国憲法の源泉に遡りそこから出発して検討を、加えなければならないことは言うまでもない。人類が法治国家・立憲国家を形成するに至るまでには、過去十数世紀の長きに亘る人類の自覚の進歩と努力の結集との賜物に外ならないことは、歴史の証明するところである。
(以下田中耕太郎批判をしつこく述べている。最高裁チャーターメンバーによる大法廷合議というのは,しばしばヤジと怒号であったということを聞いたことがある。日弁連総会みたいだな。)

田中裁判官は、「多数者が横暴に振舞い、事実として懲罰の事由の存否が疑わしい場合に懲罰に附し」たとしても、議会の懲罰のごときは「政治問題たるに止まり、違法の問題ではない」と極めて簡単に片付けているが、これは事実の真を少しも検討していない認識不足による暴論であると評するの外はない。

さらに田中裁判官は、「本件の除名処分が、議会の内部紀律の問題として、議会自体の決定に委ぬべきものであり、司法権の介入の範囲外にある」と言つているかと思えば、議会の内部関係の問題でも違憲の場合には司法権が介入することを述べている。しかし
また、田中裁判官は、自説の「理論的基礎としては、これを法秩序の多元性に求めなければならない」として、「国家なる社会の中にも種々の社会、例えば公益法人、会社、学校、社交団体、スポーツ団体等がそれぞれの法秩序をもつている」と説いている。(中略)。もし、その所属団体の処理の仕方が違法(単なる妥当の問題でなく)であつても、団体の構成員は団体の特殊な法秩序の故に、終局的にも裁判所に出訴して救済を求めることが出来ず、ただただ歯を食いしばつて泣寝入りをする外ないとすれば一国内の随処に局部局部の支離滅裂の破綻を生じ、国民の不平と不満を招来することは必定である。かくては、一国の統一した円満な法秩序は、ついに具現するに由なく、法治国家・立憲国家の実は失われてしまうに至ることは火を見るよりも明らかである。
なお、田中裁判官は、「義会は執行機関ではなく議決機関であり、それが行政処分をなすことは、執行機関たる知事の職務権限に属する」といつている。議会は、条例を制定したり又は会議規則を制定したりするが、それは恰かも最高裁判所が規則を制定する場合と同様に、そのために憲法上の純然たる立法機関となるわけではなく、常に地方自治行政を行う行政機関として行動するのである。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/EF2891E9ED336AE249256A8500312326.pdf
(時効の本質論に関する結構有名な判例
 裁判官松田二郎の反対意見は、次のとおりである。
 消滅時効の制度は、債権不行使という事実状態が継続したとき、その長い間の事実状態を尊重して、権利の上に眠る者を保護しない制度であるが、債務者が債務を履行すべきことは、道義上当然のことであり、いわば自然法上の要請ともいうべきであるばかりでなく、もし、私法上において一定期間の経過により当然に消滅時効の完成による債務消滅の効果が債務者に及ぶものとするときは、その利益を享受することを欲しないで誠実に債務を履行しようとする者の意思を無視することとなろう。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/2B5FB6C0167B5A7B49256A850030AB3E.pdf
(法学部生なら誰でも知っている尊属殺違憲判決 破棄自判 未決勾留は不算入。色川裁判官の蘊蓄。
この判決は、裁判官岡原昌男の補足意見、裁判官田中二郎、同下村三郎、同色川幸太郎、同大隅健一郎、同小川信雄、同坂本吉勝の各意見および裁判官下田武三の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見によるものである。←8人の意見が一致しなくても裁判官全員一致なのだ)
裁判官色川幸太郎の意見は次のとおりである。
 ところで、孝はいうまでもなく儒教において最も重しとされた道徳である。古代儒教の説いた孝は、やや変容は受けたものの、「忠」とならんで徳川時代武家社会を支配するゆるぎなき根幹の道徳となり、さらに、徳川末期には、心学の普及などに伴い、農工商の庶民にもある程度浸潤するところがあつた。もつとも結局においては、一部富裕な階級を除き、一般町民や農民を完全に把握するにはいたらず、孝の観念を基調とする家族制度も庶民層の間においてはついに確立しなかつたといわれている。ところが明治初頭、政府の重要な教化政策としてとりあげられ、国民に対し、あらゆる方をもつて徹底せしめられた結果、封建的な孝という徳目は、あたかも万古不易の普遍的倫理であるかのごとく考えられるにいたつたのである。だが、それは錯覚にしかすぎず、要するに、歴史的な一定時期の、特殊な家族制度を背景としてつちかわれ、そしてまた逆に、かかる家族制度の精神的な支柱を形成していたものであり、決して、古今東西を通じて変るところなき自然法道徳ではないというべきである

以下は,判例と言うより主張整理顕れた当事者の主張 言うに事欠き自然法

 論旨は、憲法の人権保障の規定は、自然法思想に支えられた強い抵抗の論理を内在せしめていると解せられるところ、警職法改正案の内容が労働者の生存権の確保のための最も基礎的な条件ともいうべき労働基本権を制限するようなものであるだけに、その擁護を目的としてなされる本件争議行為はむしろ、右基本権自体の論理的内容をなすものと解することすらでき、或はC1の組織目的を達成するための最低限の抵抗行動であつて、いわゆる抵抗権の行使として正当視されるのは当然の帰結であると主張する。しかしながら、所論のいう抵抗権が憲法第一二条所定の自由及び権利の保持義務のための抵抗運動が許容されるという意結であると主張する。
しかしながら、所論のいう抵抗権が憲法第一二条所定の自由及び権利の保持義務のための抵抗運動が許容されるという意味であるとすれば、仮りに警職法改正案に対する抵抗運動を許容し得るものであると解しても、その運動の規模、手段方法(態様)が、現行法秩序全体の枠を越え、可罰性を帯び且つ反社会性、反規範性を具有すると認められる被告人らの本件行為についてまでも、その違法性を阻却し、正当視されるものであるとはいえないことは明白である。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/D76A458BE3C8AA0149256D41000B0DFA.pdf
このように、原告は、本件各届出の受理によつて、その子女に学校教育法第二一条第一項に基づく教科用図書を使用していわゆる学習指導要領に基づく学校教育を受けさせる権利(自然法的な権利)を奪われたのであるから、本件各届出の受理の取消しを求めるにつき法律上の利益を有しないということはできない。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/8C465BDC993864D149256D41000A7800.pdf
二 被控訴人らの主張
(2) 存在意義
憲法第八一条の定める違憲審査制度は、第一に憲法最高法規性を前提とし、これを立法、行政のすみずみにまで貫徹せしめることを使命とするもので、この権限は、裁判所に憲法の番人としての重責を担わしめたものである。殊に基本的人権の保障は、むしろ憲法以前の自然法の要請であり、立法府といえどもこれを侵すことのできない高次法として実定憲法のなかに定着されたものであるから、これを侵害する立法府、行政府の措置に対しては、より峻厳な態度で臨むことが裁判所に要請されていると解すべきであろう。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/3FF7DBDACBFF8C7149256CFA0007BB04.pdf
 <要旨>そこで検討するに、道交法一の他道交法のような行政取締法規は、自然法と異なり、市民に倫理感を期待することは不可能であるから、その解釈は厳格でなければならないこと等の諸点に照らして考えると、被告人の本件所為は道交法一一七条の三第二号に該当しないことが明らかであるのに、同条号に該当するとして被告人を処断した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の適用の誤りがある、というのである。


http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/5339AEC761F66AE849256D41000B0F1B.pdf
 (1) 憲法の納税義務の本質に由来する納税拒否権
憲法三〇条は、「国民は、法律の定めるところにより納税義務を負う。」旨定めているが、右納税義務は、自然法上との義務ではなく、社会契約上の義務であり、為政者が憲法条項を確実に実践履行することによつてはじめて発生するところの義務である。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/EB4FB9344CF54AD149256D41000B0F88.pdf
i 公正、公平等他の行政目的を阻害し、行政全体の均衡を損なわないかについて正義、公平の観念は自然法的原理であるが、本件は、幌延町及び周辺市町村、北海道、国それぞれのレベルで鋭く意見が対立している問題であり、その一方の側の、しかも特定の地位にある者の団体に、民意の形成を目的として金銭を支出することは、著しく不公平かつ不正義である。

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/09394E751F2E8BB949256CFA0007BCE2.pdf
去しようとしたもので、これは人間の牛存(原文のママ)に対する根本的な侵害行爲であるから、これに野宿労働者と共に抵抗した被告人らの行為は、自然法上の抵抗権の行使に該当すると主張する。