カトリック聖職者と裁判員

 アントニ庵姉妹が詳しく論じ,私も少し書いたところだが,「聖職者に裁判員辞退促す カトリックが見解公表」という結論が出たようだ。日本の司教では,白柳枢機卿と仙台教区平賀徹夫司教(カトリック新教会法典の訳者の一人で兄君は,司法研修所における刑弁の師匠平賀睦夫先生)が専門家なので,たぶんそれらの人の意見は,強く反映されたのではないか?

http://www.47news.jp/CN/200906/CN2009061801000453.html

聖職者に裁判員辞退促す カトリックが見解公表
 日本カトリック司教協議会カトリック中央協議会は18日、5月に施行された裁判員制度で、聖職者らには裁判員を辞退するよう促す見解を明らかにした。2月の勉強会で「聖職者は国家権力の行使に当たる公務に就いてはいけない」というローマカトリック共通の教会法に抵触すると指摘があり、対応を検討していた。

 司教協議会によると、聖職者の裁判員就任について、ローマ教皇庁の担当部署に問い合わせたところ「教会法に抵触する可能性がある」と回答があった。

 このため、国内に約8千人いる司教・司祭や修道者らが裁判員候補者名簿への記載通知や候補者の呼び出し状を受け取った場合、調査票や質問票に辞退することを明記して提出する。辞退しても選任されたら、過料を支払い不参加とするように勧める。

 一方、見解では、国内約45万人の信徒が裁判員に選ばれた場合、各自が良心に従って対応すべきとした上で「死刑判決に関与するかもしれないなどの理由から良心的に拒否しようとする立場をも尊重する」としている。

2009/06/18 12:43 【共同通信

 注目すべき点は,「辞退しても選任されたら、過料を支払い不参加とするように勧める。」というところだ。日本の実定法で定められた義務を実力行使(不作為)で従わないわけで,抵抗権の行使と位置づけられる。
 抵抗権の行使は,自然法論で根拠づけられることが多いが,しかし,カトリック教会が,新教会法第285条3項(聖職者は,国家権力の行使への参与を伴う公職を受諾することは禁じられる。)を「自然法」と考えているわけではないだろう(このカノンが,自然法に由来するものではないという点については,以下を参照。
http://d.hatena.ne.jp/taron/20090313/p10

 となると,「教会法」と「世俗法」との優劣関係の問題となる。
 教会法の入門書(ホセ・ヨンパルト)は今すぐ参照できないのだが(エーリック・ヴォルフ著菊池信光訳「教会法 その歴史的展開」という本があるのだが,この問題については,全然役に立たない),事務所にあるグスターフ・ラードブルッフの「法学入門(234頁以下)」は,教皇ボニファティウス8世の回勅(ウーナム サンクタム)を紹介したうえ,以下のように解説している。
 

このように教会はその法秩序が国家の法秩序に優越することを主張した。それに対し,ザクセン法鑑において国家は(中世において一般にそうであったように)その法秩序が教会の法秩序と同等の地位にあることのみを主張した。国家が新たに主権をその正常なメルクマールとして意識するようになって,初めて国家の教会に対する優越が主張され,かつ実現されるようになった。そうなると,教会は,その政治上の実践においては,一歩後退して自己と国家とが同列にあること,いわゆる同列説(Koordinationstheorie)を主張するにとどめた。もっとも,カトリック教会の公式の見解は,国家に対する教会の優越の教説を今日にいたるまで固執してきたし,また今後とも固執するに違いない。

 日本の司教団も恐らく,教会法の条文だけでなく,「世俗法と教会法との関係」まで議論し,「抵抗権行使」の見解を出したのだろう。アントニ庵姉妹が言うとおり,教会法優位説に立つ「カトリック世界の俺様ルール」なのである。
あんとに庵姉妹は,俺様の法が世俗法より上なんだぜ!と言う考え方を維持した場合,同時に世俗法の下にいるカトリック聖職者・信徒の矛盾相克を鋭く指摘している。ケルゼンなら,この矛盾をどう解いただろうか?

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20090311/1236780742
さて、そうした固有の俺様的法律を持った教会という国家とは全然別の次元で存在している共同体に所属する者たちは、同時にそれぞれがどこかの国の国民である。市民としてその国に所属するのである。なので国家としては一市民に過ぎないそれらの聖職者が俺様ルール的に「カトリック聖職なんで参加出来ませーん」などというのは「国家の市民としてどうよ?あんたは市民として暮してるんだから責任果たさないと罰しますよ」と言うしかない。


 しかし,聖職者と信徒の過料(10万円)は教会が面倒見てくれるのだろうか?



他方において,このような見解も表明されている。
http://jasmine-colloquial.blog.so-net.ne.jp/2009-06-18

マタイによる福音書22章で「皇帝に税金を納めるのは、律法にかなっているでしょうか、適っていないでしょうか?」という罠のある問いかけにイエスは、デナリオン銀貨の肖像と銘が皇帝のものであることに気づかせ「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えています。 このように信仰と社会参加とは、ある場合には別の次元にあり、線を引くことができるのです。

 神学的に位置づければ二王国論で,ルター派信徒としての私の見解もこれに近いのだが,ちょっとこれ以上の説明は不能。私の「反裁判員思想」は神学的信念とある意味では関係し,ある意味では関係しない。