ミネルバのフクロウは黄昏とともに飛び立つ
言わずと知れたヘーゲルの言葉である(「法哲学」の序文)。(ヘーゲルの「法哲学」(長谷川訳他)は自宅の書斎にあるので,今(事務所)参照できないが,後刻このエントリは補訂する予定。)
弁護士と地元選出の国会議員との懇親会の際,当地のすごく偉い弁護士さん-(ワ)先生としておこう-が冒頭の挨拶でこの言葉を引用し,「新しい時代には新しい哲学が必要だ」みたいなことを述べ,いわゆる「新しい時代-裁判員制度その他のいわゆる「司法改革」-」を礼賛していた。別にいわゆる「司法改革」を礼賛するのは,彼の自由なのでその辺はどうでも良いのだが,「ミネルバのフクロウは黄昏とともに飛び立つ」って「新しい時代には新しい哲学」という意味だというのは,浅学非才の身ゆえ,(ワ)先生のお言葉で初めて知った(「新しい金玉には新しい玉袋」という言葉なら聞いたことはあるのだが・・・)。
私は,人生40数年の間(ヘーゲル-岩波文庫の小論理学-を最初に読んだのは,高校生のころ。その後「歴史哲学」もちょっと読んだが,あまりにメチャクチャなので,以降ヘーゲルは止めて,大学生になってからはポパーとかを読み始めた),この言葉は「学問とか哲学なんてものは,所詮,後知恵の屁理屈みたいなもので,実践には余り役に立たない」みたいな意味だと何となく考えていたので,(ワ)先生の深遠な挨拶によって,蒙を啓かれてその学恩に感謝を捧げる次第である。
今日は,ある事件の弁護方針確立のため,事務所である人の文献を読んでいた(どんな文献を読んでいたかは,検察官や公安警察にばれると問題なので,書かないこととする)。
そうしたら,ミネルバのフクロウを引き合いに出したある論文が見つかった。以下引用。
ミネルバの梟は、日暮れてとびたつ
「ミネルバの梟(ふくろう)は、日暮れてとびたつ」という諺(ことわざ)があります。「ミネルバの梟」とは学問とか真理とか研究をさし、「日暮れて」は「人間の実践的行為が終わったあと」をさしています。つまり、人間の歴史的行為が終わったあとに学問は発生するという意味です。つまり歴史を選択し決定するような行為は、あるいはそういう時代がはじまっているようなときには、既成の理論よりむしろおこっている事柄の方がもっともっと大きな意味をもっている場合が多いのであります。
「ミネルバの梟(ふくろう)は、日暮れてとびたつ」というのは,ヘーゲルの言葉とばかり思っていたのだが,諺(ことわざ)だったのか・・・。知らなかった。
参照
http://mentai.2ch.net/philo/kako/1007/10071/1007130418.html