昔書いた準備書面(名誉毀損・憲法論争)

第三 表現の自由名誉毀損
一 はじめに
 この裁判で問われているものは、「表現の自由と人格権の保護」である。これらは、共に憲法上の人権であり、両者が矛盾・衝突する場面をどのように裁くかは、結局「バランス」の問題であって、どちらを絶対的に優先させるべきというものではない。
 そして、バランスの取り方は、表現の内容・表現方法・表現者と被表現者との力関係その他の特性によって異なるものである。
 以下、この点に関して、比較衡量の視点を考えてみる。

二 政治的表現か、営利的表現か
 本件は、「黒埼町における場外舟券売場設置の可否」という勝れて政治的な問題をめぐってなされた表現行為が問題となっている。
 表現の自由憲法上の価値は、改めて解くまでもないことであるが、なかんずく「政治的表現の自由」は国民主権原理・民主政治の基礎を支えるものであり、最大限保障されるべきである。
 政治的表現は、価値と価値、信念と信念とのぶつかり合いの中で行われる。それは、牧師の説教や文化サロンの講演のようなきれい事の世界ではないから、その表現態様は、論敵にとっては不快なもの・恐らくは、裁判官諸氏にとっても不穏当なものである。
 そもそも「政治的表現」は、危険であり・不快である。「常識的なお行儀の良い言葉遣いで和気あいあいと語り合う」などという世界ではない。
 政治的な事柄が言論によって決せられるようになったのは、近代民主主義社会成立以降のことであって、昔ならば、「政治闘争」は「殺し合い」であった。殺し合いではまずいから、言論で決着を付けるようになったわけである。故に、政治的言論には、常に何らかの不穏当さが付きまとう。極論すれば、「言論の場で相手を殺す」ぐらいのことはあってもおかしくないのである。
 右に述べた「政治的言論」の特質に鑑み、政治的表現は、激越・辛辣であるのが常であり、公権力や論敵からの攻撃にさらされやすい性質を持っている。その攻撃がフェアな対抗言論であれば、問題はない。しかし、攻撃が民事提訴・刑事告訴などの手段である場合もある。このような「法的対抗手段」に怯えながら言論活動をしなければならないとすれば、自由闊達であるべき政治的表現は、たちどころに窒息し、民主主義は死滅するであろう。
 これが憲法上「萎縮効果(Chilling effect)」と呼ばれている問題である。
 「どういう行為を行ったら表現の自由を規制する法律に触れるのかということが不明確であると、国民の方は自分の意見を発表するのを控えてしまい、そういう状態において表現活動が閉塞状態に陥って民主主義の崩壊を招く危険性があるということである」野中・中村など「憲法I〔新版〕」(有斐閣)三二六頁・芦部「憲法判例を読む」二三一頁等参照
 なお、「政治的言論」との言葉を用いたが、その意味は、例えば「資本主義か社会主義か」とか「消費税の是非」とかいうような世論や政治思想を二分するような意味での「政治問題」ではない。「住み良い環境を守りたい」という地域住民にとって共通の政治問題である。先に、「政治闘争」は「昔ならば殺し合い」ということを述べたが、その比喩を用いれば、「百姓一揆」の世界であろう。

三 被言及者は「公人(Public figure)」か「私人」か
 表現行為における「被言及者」が「公人(Public figure)」である場合、私人の場合に比べ、表現の自由は保護されるべきである。阪本昌成(広島大学)は、この点、以下のように解いている。
 「公衆に知られた存在」または公務員については、その人たちが公衆から批判の対象となるリスクを引き受けて当然であること、また、反論の機会に恵まれていることを考慮すれば、その者の社会的評価は自由市場において決定されて良い。特に、その者に関する社会的評価の基礎となる様々な知識が自由市場に流れ出て、公衆がその真実性を判断するプロセスは開放されていなくてはならない(阪本 憲法理論〓 五六頁)。
 また、高橋和之東京大学)は、「対抗言論(more speech)の法理」の問題として以下のように解いている。
 人の名誉は他人の表現行為によって毀損されうるものであるが、同時に毀損された名誉は、表現行為によって回復することも可能である。そうだとすれば、表現の自由の観点からは、名誉毀損に対する救済方法は、表現者に対して法的制裁を課す前に、まず反論・「対抗言論」により名誉回復を図ることを求めるべきである。特に表現行為の相手方が「公人」である場合、通常「公人」はマスメディアへのアクセス、その他社会的影響力ある表現手段を駆使して対論者・反対勢力に対抗することが可能である。そして、当該公人が例えば批判・攻撃を受けることが予想されるような立場に自ら進んで身を置いたという事情がある場合は、右のような対抗言論によって自己の名誉の回復を図るべきものである(高橋和之パソコン通信名誉毀損」ジュリスト一一二〇号八〇頁以下)。
 原告らが「公人」に該当することは言うまでもない。したがって、原告らは、被告らのビラによる言論活動に対抗した言論活動(「ときめき会会報」等のビラの配布や街宣車による宣伝、マスメディアへの情報提供、自治会関係者への説得活動等)をすることが十分可能な立場にあった。そして、原告らは、「舟券売場の設置・運営」の目的で黒埼町へ乗り込んできたものであって、世論による厳しい批判を受ける立場に自ら進んで身を置いたものである。これらの事情に鑑みれば、原告らは、舟券売場反対派の言論活動によって仮にその社会的評価が侵害されることがあったとしても、「対抗言論」によって被告らに対抗し、その「名誉」を維持・回復すべきであったというべきである。
 のみならず、本件原告らは、当時の町長・町議会・商工会・自治会幹部を味方に付け、資金力を背景にした「言論・宣伝」の「武器」の点で、圧倒的優位に立っていた。被告らにとっては、「ビラ」程度の「武器」しかも持っておらず、いわば「重戦車」と「竹槍」の闘いであったのである。「対抗言論」の手段を執ることは、必要であるのみならず、原告らにとっては容易・有効な方法であったはずである。

四 対立する人格権は「名誉権」か「プライヴァシー権」か
 表現の自由に対立する法益は、広義の人格権である。そして、本件において問題となるのは、プライヴァシー権でなく、名誉権(信用をも含めた)である。この点から見ても、言論の自由は最大限保護されるべきである。
 名誉の定義からして、社会的評価にかかわる知識はプライヴァシーの場合とは異なり、思想の自由市場に流れ出ることが当然の前提とされている。その意味では、名誉と言論の自由との調整にあたっては、基本的には、言論の自由を優先させながら衡量しなければならない(阪本 憲法理論〓 五六頁)。

五 意見表明か事実言明か
 原告らは、被告らが配布したチラシが「名誉毀損」であるとする。しかし、その記載内容は、個別的に見ても・総合的に見ても原告らに関する具体的事実でないことは、先の準備書面で説明したとおりである。本件チラシは、「ギャンブル施設には汚職や利権が付き物である」、「原告モーターボート新潟による説明会はいい事ずくめのうまい話ばかりであり、交通問題・環境問題・教育問題についてなんの具体的解決策もない」等と言った意見表明である。
 「意見表明の自由」は「事実言明の自由」以上に、保護されるべきである。けだし、論評・批判・意見など主観的なものの見方については、客観的な事実に関する言説と異なり、真偽・正誤が問題となる余地は少なく、いっそう強く表現の自由の保障を受けると考えられるからである(右崎正博 「名誉毀損における事実と論評 法律時報六九巻一一号一〇三―四頁」)。この点は、「公正な論評の法理」として、判例・通説上、確立された見解と見て良い。
 なかんずく、「政治的表現」は、先にも触れたとおり、その本質からして、「お行儀の良い」ものではあり得ない。「公正な論評の法理」において「いかにその用語や表現が激烈・辛辣であろうとも、(竹田稔著「プライバシー侵害と民事責任」(判例時報社刊)二一二頁)」とされているゆえんは、ここにある(論評や政治的意見に「品位」を求めるのは、プロレス会場で「暴力反対」と叫ぶのにも等しいナンセンスである)。

六 公然の表現か非公然の表現か
 非公然の表現が公然の表現に比べ保護されるべきことは、言うまでもない(というより「非公然」の表現行為に制裁が加えられることはあり得ない。この点は、原告らも自認されているところであろう)。そして、ある行為が「公然」であるか「非公然であるか」の区別は、厳格になされるべきである。
 この点について、阪本昌成は、以下のように解いている。
 「公然性の要件」は、「加害原理」に鑑み、厳格に理解されなければならない。
 他人の社会的評価を低下させる傾向のある言論が名誉毀損を構成するためには、「公然性の要件」を満たさなければならない。「公然」とは、判例によれば、不特定または多数人が認識しうる状態に置くことをいう(大判大一二・六・四)。これに対して、学説の中には、公然とは不特定または多数人に直接摘示することをいうと解するものもある。しかし、名誉保護のために言論の自由を制約する国家行為が憲法上の基礎を持つか否かを問う憲法学の観点からは、当該言論が「加害原理」を満たすか否かが問われなければならない。法益侵害の具体性を問う学説の見方が正当である。(阪本前掲書五五頁)
 「加害原理」というのは、耳慣れない言葉であるが、阪本の解説は、大略、以下のとおりである。
 「加害原理」とは、国民の人権を制約するに際しての「正当化根拠」、換言すれば、基本権調整のルールである「公共の福祉」の一類型である。
 加害原理(harm-to-others principle)とは、主に、身体や財産等の利益に対して物理的な危険を及ぼすことが念頭に置かれている。保護法益の中心が身体・財産であった時代においては、これで十分であったが、精神的平穏利益の重要性に気づかれた段階で次の「感情侵害原理」が登場する。
 加害原理に対比される「正当化根拠」が「感情侵害原理principle of offensiveness」である。これは、他者の精神的平穏さへの侵害を万人に禁止する原理であり、猥褻表現規制の正当化根拠とされている(以上 阪本 憲法理論〓一六七頁)。
 さて、原告らは、運輸省楢崎弥之助代議士に対する文書の送付は「公然の事実摘示」であり、慰謝料請求原因であるとする。しかしながら、被告らの文書送付は「不特定人」又は「多数人」を対象としたものではなく、「公然性の要件」を充足しないことは、先の準備書面で陳述したとおりである。それ故、原告に対する「利益侵害」があったとしても、要するに、「名誉感情が侵害されて不快な思いをした」とか、「関係部局からお目玉を喰らった」とかいうような「感情侵害」にすぎないのである。実際、原告らの主張・立証はこの点に尽きており、被告らの行為により「身体や財産等の利益に対して物理的な危険が生じた(加害があった)」というのは、主張も立証も全くなされていない(主張立証が困難であるが故に請求の趣旨を縮減し、請求原因事実を大幅に変更したのであろう)。それ故に、原告らは「慰謝料(精神的苦痛に対する損害賠償)」を求めているに過ぎないのである。
 被告らが縷々主張したとおり、政治的表現は辛辣・激越にならざるを得ないのであり、これによって、原告らの「感情侵害」が生じ、「お目玉を喰らった」たとしても、その故をもって被告らに対し、慰謝料請求をしたり、謝罪広告を求めたりするのは、「表現の自由」の保護から見て相当でない。民主主義社会において生きとし生ける者としては、すべからく、受忍すべき事柄である。

以上