キリスト業界は村社会(聖神中央教会) 2

 キリスト教プロテスタント内の根深い対立、相互不信、あるいは、「どうも○○教団は変だ」・「○○牧師は最近変な運動に走っている」と言うような話は、決して説教壇から語られることはないし、お食事会(愛餐会とも言うらしい)で話題になることもない。キリスト教系出版社からそういう本が出ることも殆どない(ちゃんとした神学論争-たとえば保守的カルヴァン派やディスペンセーション派によるペンテコステリズム批判等−は別)。教会の公式サイトで書かれることもない。
 
 クリスチャンと言えども(笑)、こういう話ができるのは、酒飲んだときか、よほど対話者間に信頼関係があるときくらいだ。ある程度その種の問題について「目の肥えた」者同士でそっと他に聞こえないように、あるいは牧師室や牧師館(要するに密室)で・・・。
 どういう文脈で話題になるかと言うと、要するに「羊泥棒」問題である。

 もともと、キリスト教信徒あるいは求道者というのは(二代目信徒、大学がミッション系だった、「尊敬する人がクリスチャンなので・・・付き合いで」などを除き)、何らかの心の悩み(場合によってはある種の精神疾患)、経済的・社会的悩みを持っている人たちが多い。情緒的なものに流される人も多い。
 つまり、悪い意味合いで「あの人は、宗教やっているんだって」と言われる様な感じの人たちだ。「宗教やっている」と言われる人々は、たいてい新興宗教に行くのだが、そういうドン臭い・胡散臭いものを敬遠し、「キリスト教なら信用できそうだし、おしゃれだわ」という感じで、キリスト教会の門を叩く。

 そういう「宗教やってる的人々」−悩みを持った人(癒されたいと願う人)が−がいわゆる伝統的キリスト教派(カトリック聖公会・ルーテル・日本基督教団等々)の門を叩いても、残念ながら、「即効的癒し」はない(穏健な福音派でも同様)。この種の求道者や信徒は、伝統的教派の教会から疎んぜられ、お荷物扱いされることもある。だいたい、伝統的教派に定着している人の相当数は、プチブル階級か企業・役所の偉いさんなのだ(典型は某教団鎌倉方面教会)。

 彼ら/彼女ら(面倒なので、以下「信徒等」)は「教会ジプシー」の果てに、「羊泥棒」の餌食となる。
 「羊泥棒」は「○○クルセード」、球場を借り切っての「○○リバイバル大伝道集会」「○○聖会」等々にひそかに侵入し、トラクトを配り、信徒等のために「癒しの祈り」をしたりして、自分たちの教会に誘い込む。
 で、信徒等は、その教会で「救われ」たり「転会」するわけだが、残念ながら、彼らの重荷は軽くならない。

 「私は、神様に熱心に祈り、聖書を1日5章読み、主を賛美し、今こうして癒されました!ハレルヤ!!」
 「私は、むさぼりの心を捨て、神様に10分の1を捧げ、今では、こんなに経済的祝福が与えられました!ハレルヤ!!」
 そういう証(あかし)を信じ込み、自分でも同じことをやってみるが、癒されないし、貧乏のまんま。もともと精神疾患や経済的困難に陥っている人は、必然的に悪循環に落ち込む。教会に行くことが辛くなり、ついには、日曜の朝に起き上がれなくなる。「悪霊の攻撃?」を跳ね除け、教会に行くと、「最近ちゃんと献金をささげているの?」「タバコくさい・二日酔いじゃないの、こんなことをしていたら、神様の祝福を逃すわよ、兄弟のために祈っています」と「励まされて」ますます悪循環。

 こういった事例を、私は確かな情報として複数知っているし、自分自身、そういう体験をしかかったこともあった。


 「わたしの軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」と聖書に書いてあるのにね(マタイ11−30 新共同訳)。
 はっきり言う。キリスト教の本質はそういう「悩みの解消」や「心の平安」や「癒し」ではない、そういう作用や効果があるとしても(あることは否定しない)、決して即効性があるものではない。
    (以下続く)


注 ちょっとペンテコステ・カリスマ派の悪口になってしまったけど、私は、これらの教派を全否定してるわけではない。何しろ、自分自身カリスマ派の雑誌に、「おちゃらけ業界暴露話」を連載しているわけでして・・。いずれ、この点については、説明する。