「判決下される」との表現について

「判決(『を』or『が』」)下される」という表現をしばしば耳にするが,私は,このような表現は,誤っていると考える。「下々の者が偉い裁判官に<判決をお願げえしますだ>とひれ伏し,裁判官閣下が,『判決を下される』」という,なんというか(新約聖書に出てくるような),非常に非民主的な光景が連想されるのである。反権力の労働組合関係者がこのような表現を平気で使うのは,いかに慣用的表現として定着しているとはいえ,いささか見識を疑う。
法律用語では判決は「言い渡し」されるものだが(条文引用省略),これもまた,「司法の民主化」というトレンド(笑)に逆行する表現だと思う。
「判決が発出される」とか「判決が発表される」とか「判決が出る」とか,「判決を朗読する」とか,そういう価値中立的表現は出来ないのだろうか?
気に入らない判決が出たら「クソ判決を○○馬鹿裁判長が我々に申し上げやがった」とか言っても別に名誉棄損にはならないと思う。

とは言いながら,弁護士業務の日常では,「上申書」・「嘆願書」・「以上のとおり申し出する次第であります」みたいな文書ばかり起案している。
「挑戦状 ○○裁判所宛」とかいう表題の書面を満腔の怒りを込めて,権力に叩き付けたいと思う今日この頃(実際その種の書面を裁判所に提出する−たいていファックス送付−のは,事務員さんの訳で,「センセー,本当にこの書面送っていいんですか? こないだ,『ラッツィンガー枢機卿は悪人顔をしているが,学徳に優れた聖職者・神学者である。人様の人相風体でその人の人格を判断するのは,不見識というほかない』とか書いて,裁判官に怒られたそうじゃないですか」と事前検閲が入ることが多い_| ̄|○
夜,酒の勢いで書いた書面は昼間にチェックして,出来るだけ修正しているつもりなのだが・・・。