国は個人の出産について口出しするな2

聖書的な支配概念について1で述べた。
これに対して、2つの異論が起こった。
一つは、教会中心主義。中世ローマ教会による全的支配である。
もう一つは、国家中心主義。個人や家庭の生産的領域にまで国家が口をはさむようになった。
国は個人や家庭を利用し、国の覇権拡大に駆り出した。それが明治維新以降の日本国の最大の間違いである。
人々は無益な戦争に駆り出され、外国に行って人を殺し、殺され、国内では原爆を含むおぞましい爆弾攻撃を受けて無数の人々が死んでいった。
これが国という救い主の正体である。一見すると救い主のように見えるが、人々を地獄の底にまで連れて行く悪魔である。
国が悪魔だというわけではない。国がその持ち場を離れ、人々に対して主権を振るうと悪魔に変わるということだ。
神は、神の直接支配を嫌い、王を求めたイスラエルに対してこう警告した。
「あなたがたを治める王の権利はこうだ。王はあなたがたの息子をとり、彼らを自分の戦車や馬に乗せ、自分の戦車の前を走らせる。
自分のために彼らを千人隊の長、五十人隊の長として、自分の耕地を耕させ、自分の刈り入れに従事させ、武具や、戦車の部品を作らせる。
あなたがたの娘をとり、香料作りとし、料理女とし、パン焼き女とする。
あなたがたの畑や、ぶどう畑や、オリーブ畑の良い所を取り上げて、自分の家来たちに与える。
あなたがたの穀物とぶどうの十分の一を取り、それを自分の宦官や家来たちに与える。
あなたがたの奴隷や、女奴隷、それに最もすぐれた若者や、ろばを取り、自分の仕事をさせる。
あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがたは王の奴隷となる。
その日になって、あなたがたが、自分たちに選んだ王ゆえに、助けを求めて叫んでも、その日、主はあなたがたに答えてくださらない。」(1サムエル8・18)
つまり、神を救い主として求めず、国に救いを求める人々の報いは、「奴隷」だというのである。
国に頼る人々は、戦争に駆り出され、過酷な爆撃を受けて死んでも文句は言えない。