自然法に期待するな

再建主義の批判者は、だいたいにおいて自然法論者である。
「聖書の法などに帰らなくても、特定宗教色のない『自然法』でよいのではないか。」
今のクリスチャンのほとんどはこのように考えている。
しかし、彼らは、自然法はカントにおいて埋葬されたということを知らない。そして、ダーウィンによって、墓を暴かれ、骨をこなごなにされて、海にばら撒かれたということも。
カントは、世界を現象の世界と、叡智の世界とに分けた。
そして、人間の知識は現象の世界以外には及ばないと考えた。
なぜならば、宗教や道徳などの世界については科学的検証が及ばないから。
人間の理性から出発するという前提を立てたカントは、叡智界を「科学的知識の及ばない世界」とし、それについては不可知論の立場を取った。
それゆえ、それまで西洋を支配していた自然法は「科学の及ばない世界」に追い遣られて、理論的に消滅した。
さらに追い討ちをかけたのが、ダーウィンである。彼の思想は、人々を、世界は弱肉強食、偶然の支配する世界と考えるように導いた。
もはや自然法に場はまったくなくなった。
現在自然法にしがみついている人々は、「理論的に消滅した教えでも実際的には生き残れる」と考えるオメデタイ人々である。
理論的に否定されたら終わりなのである。
なぜならば、人間は時間の経過とともに、首尾一貫性を求めるから。
矛盾に満ちた考えは長生きできない。
問題は、人間の自意識から出発するというデカルトの人間中心的認識論にあったのだ。
自分が基点となって世界を認識できるという考えこそが、元凶なのだ。
人々は学校で「万物の尺度は人間である」と教えられている。
しかし、万物の尺度が人間であるとなれば、人間はどこまで認識可能かという問題が生じ、「叡智界は認識が及ばない。科学で証明できる現象界にターゲットを絞ろう」という話になり、またぞろ、普遍的道徳を否定せざるをえなくなる。
クリスチャンよ。神を認識の基点におかなければ、どうしても、「普遍的道徳を否定せざるをえなくなるのだ」。
自分の目が基点となれば、神や霊や道徳の世界について確言できる人は一人もいないということになる。
しかし、神の目が基点となり、神の御心が記してある聖書が基点となれば、神は全知であられるがゆえに、人間は霊の世界も死後の世界も道徳の世界も知ることができるということになるのだ。
おわかりだろうか。
特定宗教にこだわらない「中立の立場」など不可能なのだ。
17世紀の認識論の失敗から、最終的にはサタンがはっきりと現れて支配しているような現代世界の出現までの歴史過程は必然なのだ。
認識論で失敗すれば、すべてを失敗したことになるのだ。
自然法などありえない。それは早晩人々に捨てられる中途半端な代物である。
2007年2月4日