「行為論」

 突然,刑法の「行為論」に話をうつす。存在論とかハルトマンとかが出てくるので,行為論と自然法論とは,どっかでつながりがあるようなのだ。
 目的的行為論を採る人はもちろんのこと,実は,客観的行為論・意思的行為論を採る人も「行為は主観(目的)客観(身体動静)の全体構造だ」ということを認めているのである。「人間行為は目的性を有する」というのは−過失犯や忘却犯に関してトリヴィアルな批判はあるけれども−共通の理解と言って良い。
 では,目的的行為論と客観的・意思的行為論はどこで対立するかというと,「刑法解釈学という実定法学において,<主観>を<客観>から切り離して扱って良いか」という問題である。乱暴な表現をすれば,客観的行為論者は「なるほど,行為の存在構造は,哲学的・科学的には,<主観+客観>だろう。しかし,刑法学は,実定法解釈学であって,哲学でも科学でもない。だから,<主観>と<客観>を切り離して,<客観>は「違法論(行為が評価の対象)」<主観>は「責任論(行為者が評価の対象)」と考えて良いし,その方が体系的思考の便宜として分かりやすい」という考えである。
 他面,目的的行為論は,「行為の構造は人間存在に根ざしたものであり,両者を切り離して扱うことは,思考の便宜としても行き過ぎである。」ということになる。
 存在論に根ざす自然法論(特にローマ・カトリック)は,「自然の存在構造」を壊して法哲学を構築するのは,間違いだと主張する。特に「価値」とか「正義」といったものは,自然の存在構造の中に内在しているもので,それを「脇に置く」というのは,思考方法として間違いだと言うことになる。
 法実証主義や二元論は,「<哲学的・神学的には,価値を切り離せない>というのはそうかも知れないが,法哲学−特にケルゼン−という分野でそういう<自然>とか<価値>を扱うと,整合的な認識ができなくなる。」という考え方を背景としている面がある。
 そういう意味で,刑法における行為論と法哲学における実証主義は,パラレルな面がある。もちろん,客観的行為論=実証主義,目的的行為論=自然法論という具合である。この両者を結ぶ言葉として「存在論」があるのだが,この辺は,あまり詳しくない。
 Herrenmoral学兄は,最近,この分野を研究されているご様子なので,何か書いてくれると有り難い。

 そういう文脈で言うとkonatyanの日記もおもしろい。やっぱり自然法論の本山だけのことはある(九州・南山は別院か?)。
http://d.hatena.ne.jp/konatyan/