中沢桂先生との対談


第九とミサソレをぶっ通しでやったのだろうか? 3時間くらい拘束されるとホールから逃げ出したくなるだろう。

日本抒情歌曲集

日本抒情歌曲集

ベートーヴェン:交響曲第9番

ベートーヴェン:交響曲第9番

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 今年の2月4日午後、関弁連職員の○○さん(かつて慶大オーケストラに在籍していた由)と共に中沢桂さんのマンションを訪ねました。定刻の3分前にチャイムを鳴らしたところ、声楽のお弟子さんやご父兄がお帰りになるところで、とてもにぎやかな雰囲気でした。私の妻も実家でピアノ教室をしていますが、同じような雰囲気です。
 中沢先生のレッスン室には、ベーゼンドルファーのグランドピアノが置いてありました。木目調のおしゃれなピアノです。書棚には、歌曲やイタリアオペラのスコアが並んでいます。

中沢さんと、ふるさと新潟
barl
 お会いできて感激しています。実は、何年か前、妻と一緒に先生の公開レッスンを見学したことがありました。中沢先生は、新潟でのコンサートも多いですね。

中沢
 本当にふるさとがあるというのはありがたいと思っています。
 新潟へは年2度くらいの割合で、コンサートやリサイタルがあります。私は、本当は大陸からの引揚者で、新潟生まれというわけではないのですけど、みなさんが本当に良くしてくださるんですよ。

平和と音楽と(大陸から引き揚げて)

barl
 先生のご家族も音楽関係の方は多いのですか?

中沢
 戦争がなければ、姉たちも音楽学校に上がっていたと思います。姉たちもピアノやバイオリンはやっていたのです。でも戦争の真っ最中で、音楽学校どころではありませんでした。

barl
 先生は、人権や平和の問題に積極的に発言されていますね。

中沢
 ええ、微力ながら・・・。

barl
 平和運動などで発言するようになったきっかけは?

中沢
 やっぱり「引揚体験」です。私の生まれはハルビンなんです。小学校の2年から6年まで、第2次大戦のまっただ中でした。
 終戦直後の数日は、大変ドラマティックな体験をしました。北の方からソ連が宣戦布告して侵攻してきて、父は最後の応招で家にいませんでした。姉たちは師範学校に行っておりまして、母と一番上の姉と私だけが家に残されておりました。「もうここで死のう。」などと言っていたのですが、南の方へ行く最後の疎開列車に乗せられていたのです。もし違う列車に乗っていれば、朝鮮半島の方へ言っていて、命があるかどうかも分からなかっただろうと思います。「電車一本の違い」で人生はドラマティックに変わりました。
 両隣には、同級生の男の子がいて「男の子だけでも生き延びさせよう」と、おにぎりをつくって持たせて、「私たちはここで死ぬから」と行って送り出したり、本当に言葉で言い尽くせないことの連続でした。
 そういうふうに、戦争に翻弄されたものですから、どうしても、そういう方面に関心が行くのですね。

大陸での自由教育
中沢
 敗戦のころは、小学6年で、父の仕事の関係でしばらく大陸に残りました。他の人は、早い段階で日本に戻ったのですが、残った日本人は、ほんの少しで学校もないし、言うなれば、無政府状態でした。そんな中で、「子ども達を遊ばせておいてもしょうがないから」と言うことで、寺子屋みたいな学校がつくられたんです。
 そこでの教育が、私を自由主義者に育てたのではないかと思います。先生役も正規の教員じゃなくて、たとえば、大陸の大学の教官がガリ版を切って教科書をつくってくださって、自由な、何の制約もない教育を受けました。
 そのころ日本では、進駐軍の規制を受けた教育でしたね。スミ塗りをした教科書を使っていたわけでしょう。私たちはそのころ夏目漱石を読んだり手作りの教育を受けたんです。とても自由で楽しい学校でした。
 引き上げてきて、一年遅れで試験を受けて日本の正規の学校に入るわけですが、日本の子ども達よりずっと程度の高い勉強をしていましたよ。


音楽への道
barl
 先生が音楽の道に入られたきっかけは。

中沢
 今から考えると両親に感謝しているんです。大陸から引き上げてきて住む家もないし、親戚の家に間借りしていたでしょう。そんなところでいくら私が歌が好きだからって、私が大きな声で歌うのを止めなかったのは、不思議なんですよね。

barl
 終戦後の何もない時代で、「音楽どころの話じゃない」時代でしょう。

中沢
 そうなんです。わいわい歌ったり、父が「デンチク(電気蓄音機)」をつくってくれたりしてくれたんですよ。あんなに食べるものもなかった時代に・・・。
 デンチクで、いろいろなレコードを聴いて、音楽の専門の教育を受けたわけでもなく、楽譜を買ってきて、いわば勝手に歌っていたのです。

barl
 その後、東京芸術大学(芸大)へ進学されましたね。

中沢
 新潟に今でも新潟日報音楽コンクールというのがありますね。高校の音楽の先生が「コンクール受けてみなさい」と言われて受けてみたら特賞を取ったんですよ。人との出会いって、大切なものですね。
 芸大にはいるまでの間、専門の先生に習ったわけじゃないんですが、そんな出会いがあって、音楽の道を選んだんです。
 今みたいに情報がある時代でもなし、芸大にどんな先生がいるのか新潟にいても全然分からないんです。誰からの紹介もなく城多又兵衛先生の下を訪ねました。「新潟から来たんですけど、声楽やりたいのです。」と言って、芸大の教室で声を聞いていただいたんです。今の時代だったら、門前払いですよ。

barl
 今、音楽大学に行くには、小さいころから英才教育ですよね。

中沢
 そう、特に器楽なんかはそうですね。声楽は、声変わりが終わってからですけど。でも、聴音とかは小さいころからしてないと間に合いませんね。声楽科の受験は、昔は単旋律が聞き分けられれば良かったのですが、今は四声を聞き分けられないといけませんから、とても大変です。

barl
 私もこの年になってコールユーブンゲンとかコンコーネとかやっていますが、もうダメです。

音楽と景気
barl
 新潟の第四銀行が毎年主催している第九コンサート、今年で止めるようなんですよ。中沢先生も良く歌われていましたけれども。

中沢
 あら、やっぱり不景気なんでしょうかね。2―3年前まで、良く呼ばれていたんですよ。

barl
 NHK交響楽団N響)の年末の第九も、先生、レギュラーでしたね。

中沢
 私の最盛期というのは、ちょうど日本の高度成長の上り坂でしたでしょう。運が良かったと思います。N響も景気が良くて、超一流のソリストや指揮者を呼んでいましたでしょう。サバリッシュの棒で歌うとか。
 逆にヨーロッパにいたら、超一流の指揮者で歌う機会は、むしろ少ないのですが、日本にいましたので、そういう方の指揮で歌えたのです。とても幸せだったと思います。

barl
 やっぱり、景気が悪いと、音楽というのも、なかなか・・・。

中沢
 そうですね。

ご親族は弁護士一家

中沢
 私は、実を言うと、母方の兄弟に弁護士が多くいるんです。東京では、亡くなられた第二東京弁護士会の金井シゲオさんが叔父に当たります。その息子さん、金井マサト(日弁連事務次長)は、従兄弟なんですよ。他にも、名古屋で叔母のご主人が弁護士をしています。

barl
 おや、意外にご縁が深いもので。

中沢
 ただ、私自身が弁護士さんのお世話になったことは一度もないんです。

barl
 まぁ、お世話にならないのが一番です(笑い)。

オペラ「夕鶴」
barl
 中沢先生の18番は、何といってもオペラ「夕鶴」の「つう」ですね。

中沢
 「夕鶴」という作品があったために、世界中いろんなところに行けて幸せでした。一番うれしかったのは、中国での公演ですね。作曲家の團伊玖磨先生がずっと前から公演を計画されていたのですが、文化大革命が勃発して10年延びてしまいました。

barl
 文革は、文化や芸術に大変な爪痕を残しましたね。「ブルジョア芸術」とか何とか言われて根こそぎ弾圧を受けて、芸術家や音楽家も粛清された人が多かったのでは?

中沢
 そうでしょうね。文革が終わってようやく公演が実現して,中国全土にテレビ中継されました。今でも中国の方は、「夕鶴」を覚えていてくださいます。
 他にもヨーロッパではルーマニア、ウィーンのムジークフェラインなどで歌いました。ブラジルでは修好100年で歌い、シンガポール・タイでも歌いました。

barl
 先生は、「おつう」のアリアは何回くらい歌われましたか?

中沢
 それはもう、オペラ公演だけでも200回くらいですから、「つう」のアリアは、もう、とても数え切れませんよ。

新潟の音楽文化barl
 中沢先生は、ついこの間できた「新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあ)」はまだ、来ておられませんか。

中沢
 残念ながらまだなんですよ。でも、今度新潟の教職員の団体が呼んでくださいます。

barl
 とても、良いホールです。合唱で自分が歌っていても他のパートの声が良く聞こえて、歌いやすいです。

中沢
 私たち音楽家にとっては芸術文化会館ができたのは嬉しかったですけど、「他に税金の使い道があるでしょう」という批判もありましたね。

メサイアとマタイとレクイエムと
barl
 実は、去年、初めてメサイアを歌ったんです。

中沢
 あれは、合唱を歌っていて楽しいでしょう。

barl
 ええ、いい気持ちで歌いました。その前にバッハのマタイ受難曲を歌ったんですが、メサイアと比べると難行苦行の連続で、結局、第2部のコーラスなんかは、覚え切れなくって「口パク」で誤魔化しました。今年の7月に東京交響楽団モーツァルトのレクイエムを歌うのですが、オーディションで落ちているかもしれません(インタビュー後、合格通知が来た)。

編集部(○○)
 中沢先生、声楽というものは、やはり持って生まれた資質というのは重要なんでしょうか。
中沢
 それは大きいと思いますよ。
barl
(がっくり・・・。気を取り直す)。
 新潟に土屋俊幸という弁護士がいて、その奥様(土屋まり先生)がフランス歌曲の専門家で一時期レッスンを受けたことがあるんです。第四ホールでモーツァルトの「すみれ」と「夕べの想い」を歌いました。

弁護士のイメージ(庶民の味方!)

barl
 そうそう「私と弁護士さん」が主題ですので、そろそろ本題に・・・。

中沢
 私、弁護士さんに一度伺ってみたいことがあったんですよ。弁護士さんて、「この人はシロだ。」と思って仕事をするときは、生き甲斐を感じるんでしょうけど、心の中で「この人はクロだ」と思って弁護しているときは、どんな心境なんですか?

barl
 「クールに割り切る」というと語弊がありますけど、やはり弁護士の発想というのは、「できるだけ被告人の味方をしよう」というものです。「シロ・クロ」とか「客観的な真実が超越的に存在する」という発想は採るべきではないと思うのです。「しょせん真実は分からない。」ということだと思います。誤解を招く言い方ですが決して弁護士は「公平中立」という立場ではないと思うのです。

中沢
 でも、ジレンマで悩みませんか?

barl
 私は先生と一緒で、仕事は楽しくやっていて余り悩みは感じないんです。しょせん人間なんて罪深い存在で、目の前にいる被告人と弁護士の私は、そういう意味では一緒の存在ですから。
 特に刑事弁護では徹底的に被疑者・被告人の味方をしてあげたいな、と私は思います。「僕だけは君の味方だよ。」て気持ちがないと相手も心を開いてくれません。逆に変に「公平・中立」という気持ちで接すると心を開いてくれません。なかなか、世間の人は理解してくれないのですが・・・。
 中沢先生の弁護士に対するイメージは

中沢
 庶民の味方・弱い者の味方というイメージは一応あります。

barl・編集部○○
 一応ですか(笑い)

中沢
 「庶民の味方」とは言えないような仕事もやらなきゃ行けないときもあるんでしょうけど、そういう時の気持ちは複雑なんでしょ。

barl
 かもしれません。でも、例えば、公害事件なんかでも、誰かが加害企業の弁護をしないと行けないわけですから・・・。

中沢先生へのエール
barl
 中沢先生、今度、また、新潟でメサイアを歌ってください。
中沢
 いえいえ、もう、引退ですよ。ソプラノで「リジョイス・リジョイス」っていうコロラトゥーラがありますでしょ。あれは、一息で歌えなくなりました。とても体力がいる歌で、もう歌えませんよ。

barl
 メサイアはソプラノ2人体制もありですから「リジョイス」のアリアだけ若いソリストに任せて、先生は「渋めアリア」を歌うといいですよ。

中沢
 そうですね(笑い)。今年は、ぜひ新潟で歌いたいと思います。

 帰り際、中沢さんからはCD(「中沢桂日本の名歌を歌う」ビクター)と色紙を頂きました。「心より心に傳ふる花」イタリアオペラの一節でしょうか? この色紙は、もちろん、我が家の家宝にさせてもらっています。


(この原稿は,数年前に書いたものだけど,モトケン弁護士さんのブログでかなりの話題を集めているらしい。
参考
http://beauty.geocities.yahoo.co.jp/gl/imajin28490