私は,その後イソ弁になった

 実務修習の際ご鞭撻いただいた先生にイソ弁として採用された。同じ工業高校(私は建築科,ボス弁は電気科)出身という理由もあったかもしれない。ちなみに私のボス弁は新潟地震(1964年)のころある(東証一部上場の)石油会社の技術者で,自分のところの石油タンクが地震のため燃えてしまい大あわてで火を消そうとしたそうだ。その後,働きながら中央大学通信制に進学し,20代後半で司法試験に合格した(弟さんは公認会計士)。
 <月給毎月40万円,自分で受けた事件は自分の収入として良い>
という採用条件だった。自分で受けた事件の収入は千数百万円だった。おかげさまで良い妻(当時は良い妻であったが今は知らない,適度に良い妻。いい加減,ピアノで私の嫌いな曲をこれ見よがしに弾くのやめろ)と結婚し,マイホームを建て,子どもを私立中学に上げ(小6で帰国子女ではないのに英検4級)・・・,そういうレベルの生活は維持できた。

 私は,新潟水俣病第2次訴訟の弁護団員で7−8年働いた分配報酬金は40万円だったが,「こんなに原告患者の皆さんから喜ばれたから本望だ。もって瞑すべし」と思った(新潟水俣病共闘会議 事務局次長 高野秀夫氏と一緒に佐渡ケ島に赴き3泊4日で新潟水俣病キャラバンをしたら,さすがにボス弁も渋い顔をしていたが)。
 「青春を返せ(統一協会相手の裁判)」でも時給で換算すると2000〜3000円なのだが,今でも原告だった兄弟姉妹から「先生がクリスチャン弁護士だったので何でも話せて良かったと思います」というような暑中見舞いや年賀状が来ている。
 これくらいの収入がないと新潟水俣病第3次訴訟の団長とか,外国人刑事弁護とか朝鮮総連の顧問とか,名誉毀損民事事件でしっかりした準備書面を書いたり,反対尋問のため,じっくり時間をかけて戦術を練ったりとか,できないのだね。