人を殺すこと−国家による暴力−(神学的考察)

 「人を殺すこと」はどの宗教においても最大の罪で,そのような行為をした者は,地獄に堕ちるとされている。キリスト教でも同様で「人を殺すこと」はモーセ十戒でも戒められている。「では,どういう場合に人を殺すことが許されるか(人を殺しても地獄に堕ちないか)」ということも,当然のことながら,キリスト教神学(信仰)で語られている。
 おそらく聖アウグスティヌスや聖トマスは,何かしら論じているだろうが,手元に文献がないので,よくわからない。
 プロテスタントでこの点を論じているのは,マルチン・ルターとカール・バルトあたりだろう。
 マルチン・ルターは「現世の主権について」という論文を書いた。本は自宅にあるので(現在事務所)引用はできないが,乱暴に要約すれば,「あの世の論理(神の主権)」と「この世の論理(人−君主や人民−の主権)」は分けて考えるべきだというものである−カルヴァン派からは大変嫌われている−。聖書(あの世の論理)では「人を殺してはいけない」けれどもこの世の法律−この世の主権者の意思−で「人を殺しても良い場合がある」とされていれば,「人を殺しても良い」ということになる(言っておくが,あくまでも乱暴な要約)。
 マルチン・ルターは「現世の主権について」の続編みたいなかたちで「軍人もまた祝福された階級に属し得るか」という論文を書いている。「軍人は人を殺すことを職業としている。そのような職業の者も祝福されているか(天国に行けるか)」ということである。ルター博士の答えは「軍人も天国に行ける」というもので,その根拠の一つとして「二王国論」がある。
 同じく「人を殺すことを職業としている」者は言うまでもなく裁判官−あとは法務大臣や死刑執行担当刑務官等−である。「裁判官等もまた祝福された階級に属し得るか」という論文をルター博士は書いていないが,もし書いたら,同じような内容となるだろう。
 ルターはこの種の「聖書律法とこの世の律法の矛盾」について用意周到に言及している。聖書では人を殺すことのみならず,(新約聖書では)証人として誓うことも,陪審員として人を裁くことも禁止されている。そうすると軍人や裁判官はもちろん,裁判所で証人になることも陪審員になることも禁止されるのではないか,という疑問である。

アウグスブルグ信仰告白に曰く

第十六条 公民生活について
公民生活について、われらの諸教会は、かく教える。正当な公民規定は神の善き御業である。すなわちキリスト者が、公職につき、裁判に列し、現行の国法や他の律法によって諸事件を決定し、正しい刑罰を定め、正しい戦争に従事し、兵士として行動し、法定取引や契約をし、財産を所有し、裁判官の要求の際宣誓をし、妻をめとり、或は子女を婚姻させることは正当である。われらの諸教会は、アナバプテスト派を排撃する、彼らはキリスト者に、以上の公職を禁じる。われらの諸教会はまた、福音的完成をば、神の畏れと信仰とにおかないで、公職を放棄することにおくひとびとを排撃する。なぜなら福音は、心の永遠の正しさを教えるからである。同時に、福音は国家或は家族の秩序と管理とを破壊しないで神の秩序としてそれを保持し、また、このような制度の中で、愛を実践することを特に要求する。それゆえ、キリスト者は、その為政者や、法律に従わねばならない。ただし、彼らが、罪を犯すことを命令する時は、この限りではない。なぜなら、その時はキリスト者は、人に従うより神に従わねばならないからである(使徒5:29)。

http://www.wjelc.or.jp/office/credo/augsburg/main.htm

 一応私は伝統的ルター派信徒なので,アウグスブルグ信仰告白は信認しているのだが,やっぱり十六条は「ちょっとなぁ」と思う。この点について,私はカルヴァンカール・バルトに近い(ルター派の中には16条を信認していない教派も少しあるようである)。

 カール・バルトカルヴァン派−は「国家の暴力について」という論文を書いている(教会教義学からの抜粋)。国家の最大の暴力(人殺し)として「戦争による人殺し」と「死刑による人殺し」をキリスト教神学,キリスト教倫理学から論じている。新教出版社の本をもっているのだけど,すいません読んでいません。
 耳学問だが,バルトは極めて例外的状態において死刑は許されると述べたらしい−戦時下におけるスパイ行為など−が晩年にいたり,絶対的死刑否定論者に転じたらしい。
 戦争についてバルトがどう考えているかはもう一度勉強してみる。戦争についてどうかは置いて,バルトは兵役や徴兵については必ずしも反対ではなかったようだ。バルトは50を過ぎたころ志願してスイス国境警備兵になったらしい。バルトの伝記を持っているのだが,鉄兜をかぶり鉄砲を担いでいるバルトの写真が載っていた。のどかというか,ピクニック的というか・・・。