リバタリアニズム的刑罰観

 以下は,時々,自然法などに関してやりとりしている神学者 富井健先生の論考である。読めば解るように,リバタリアニズムによる刑罰観である。ご参考までに。

http://www.path.ne.jp/~robcorp/QAE/44FFGVstrsA4Y80998.htm

本当の司法改革とは?

(1)
死刑制度については、今の司法制度と聖書の司法制度がかなり異なるので「ずばり」と言うことはできません。

どこが違うかというと、今の司法制度は、国家主義です。国家のために裁判が行われる。
しかし、聖書の場合には、被害者のために行われる。
直接被害を受けた人が、聖書に定められた「最高刑」の枠内で、無罪からその最高刑まで自由に決定できる。

例えば、目をつぶされた人は、相手の目をつぶすことができる。
実際は、目に相当する贖い金を受け取ったらしい。
何も要求せずに許した場合もあっただろう。

よく姦淫をしたら死刑になると我々が主張していると言う人がいるが、ちがう。
聖書において、ヨセフはマリア(実際は聖霊によって妊娠したのだが)を責めず、無罪としたと書いてある。
つまり、姦淫の最高刑は死刑だが、配偶者が相手を許すならば、無罪もあり得た。

聖書律法は、あくまでも「被害者への賠償」が基本なのです。

これに対して、今の法律では、刑罰を決定するのは、国であり、思想的には教育刑です。
背後に、「人間は教育によって進化できる」とするヒューマニズム理想主義があります。

この間違った理念によって、被害者はほうっておかれる。

刑罰は、被害者にとってどうでもよい「禁固刑」などだ。
収監された人間は、被害者に賠償するわけでもない。
被害者は、損失を取り戻すのに、民事を起こして賠償請求する以外にない。

目がどちらに向いているかに関して、聖書律法と国家の法律はぜんぜん違う。

死刑制度については、もし殺された人がまだ息のあるうちに、相手を許すと言えば、許された。
しかし、死人に口なしの場合、殺人犯は処刑されただろう。

パウロは、「旧約聖書の」死刑制度を認めている。

戦争の場合、侵略戦争の場合、殺人になるが、防衛戦争の場合、正当防衛なので殺人にならないと考えます。

(2)
裁判員制度については、(1)の問題、つまり、「日本では、被害者中心ではないので、正義が著しく侵されている」という問題が解決されない以上、あまり重要な問題ではないと思います。

本当の司法改革とは、次の2点を確立することだと思います。

1.被害者に刑罰を決定させる。
2.刑務所において加害者に強制労働させ、被害者に賠償させる。