ヘーゲルを読み始める。

 私と同年代で法哲学を勉強した人は,碧海純一の影響でヘーゲルを敬遠している者が多いと思われる。
 私も最近まで,ヘーゲルを敬遠していたのだが,ある法学部生と対話して,ヘーゲルを読まないといけないなと思った。刑法学会の動向を見ても,こと刑罰論に関しては,ヘーゲルルーマンヤコブス)の影響は見過ごせない。「ヘーゲルルネッサンス」の影響で,良い訳書も出始めている。
 で,昨日,長谷川宏訳 ヘーゲル法哲学講義」を購入した。

法哲学講義

法哲学講義

 私は,「刑罰の本質は応報である」という−素人さんから見たら野蛮で非近代的とも思える命題−古典的刑罰感に依拠しているし,改説しようとも思わないが,しかし,「応報」という概念の(抽象的・哲学的なものだけでなく)歴史的社会的基礎付けは不可欠だろう。「(私的)復讐と(公的)応報」「公法と私法」,社会契約論−刑罰権(復讐権)は私人の自然権なのか?−これらの問題から国家刑罰権を根本的に考えないと,空疎な思弁に堕してしまう。
 畏敬する落合弁護士も,以下のとおり述べている。

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/searchdiary?word=%C9%FC%BD%B2&type=detail
 裁判のうち、刑事事件に関するものは、、元々、被害者の私的復讐に端を発するものが、次第に国家刑罰権へと昇華され、国家刑罰権が実現される中で被害者の応報、処罰感情も考慮されるべきものとされてきた経緯があると思われます。そういった考慮が十分ではなかったという反省に立って、近時の被害者保護の流れが出てきている、と言って良いでしょう。
 ただ、被害者の私的復讐が、なぜ国家刑罰権へと昇華される必要があったのか、私的復讐がむき出しの形で行使されることに伴なう弊害、といったことにも目が向けられないと、報復がさらなる報復を招くような、負の連鎖、スパイラルに陥りかねないでしょう。
 非常に難しく、バランスがとりにくいものの、とらなければならない、という分野である、ということは言えると思います。

で,前掲書からの引用(102頁以下)

 §102 対人関係上の法(権利)という領域では,犯罪の克服はまず復讐としてあらわれる。復讐はそれが報復であるかぎりで内容上は正当である。しかし,形式からすると,それは,どんな侵害行為にも無限に入り込もうとする主観的意志の行動であり,どの正当性も偶然の産物で,相手から見てもその意志は特殊なものにしか見えない。

 これだけでは何のことか分かりにくい。
 ヘーゲルは,この主文(法哲学要綱 主文)を補うかたちで,学生に向けて,以下のとおり講義する。

 刑罰は国家においてはじめてなりたつもので,国家の外では復讐の正当性があるだけです。正当性ということばは,それ自体,復讐に発するものです。国家が文明化されない時代には,復讐こそが正当なものであり,被侵害者の主観的意志のありようとして,犯罪者にしかるべき復讐を行う意志があるかどうかが重要な問題でした。たとえば,誰かが殺されたとなると,家族が仕返しに出ました。そこでは復讐が,特定の意志にゆだねられた報復の行動で,その人に復讐の意志があるかどうかが重要でした。第二に,その人は,自分に起こったことの質と量の程度を無視して,侵害を無限のものとしてとらえることにもなる。自由な主体としての侵害を受けたのですから。
 抽象的な自由は,抽象的である以上,限定はできず,特定の限界をもたないから,抽象的自由の侵害は無限の侵害となり,報復も無限の報復となります。が,無限の自由を侵害することはできず,侵害は現実の自由にたいしてしかおこなわれません。復讐が特殊な意志の行動であるかぎりで,さしあたり,そこに尺度というものがなく,また,復讐が実行されるかどうかもはっきりしない。復讐は偶然の形式をまとった報復です。

 復讐は特定の意志の積極的な行動なのだから,それ自体があらたな侵害であり,そこにある矛盾ゆえに,無限に進行するものとなり,世代から世代へ果てしなく受けつがれていく。
 アラビア人の世界では,犯罪が賠償によってつぐなわれることがありません。
 正義の行使が復讐の形をとった時代の痕跡は,さまざまな立法のうちに見いだされます。
 
 犯罪が公的犯罪(crima publica)ではなく,私的犯罪(crima priva)として訴追され処罰される場合(ユダヤ人やローマ人における窃盗や強盗,イギリス人におけるいくつかの犯罪がそうだが),刑罰は,少なくともその一部において,復讐の要素を残している。

 イギリスでは軽犯罪の裁判にかんしてそうした痕跡が残っていて,しばしば,被害者の意向にしたがって訴訟の内容が決められたり,訴訟がとりさげられたりします。裁判官が訴訟の全体をみずから掌握してはいないのです。