日本刑法学会第87回大会(学会創設60年記念大会)

 上記の件について,レジュメをもらった。記念大会なので,ロクシンとか偉い学者を呼ぶらしい。私も一時期ロクシンの教科書を読んだことがあるので,実物の話を聞いてみたい。それにしてもロクシンによる目的的行為論批判は,相変わらずのものだ。レジュメ(16ページの印刷物をレジュメと呼んでよいかどうかは疑わしい)のほとんどは,目的的行為論批判と近時のヤコブス批判に費やされている。
 「目的的行為論」によって,刑法解釈学を全部整合的に説明できない(一貫しようとすると不都合な結論に至る)というのは,それは,知っている。色んな欠点はあるからね。しかし,だからといって,行為の存在構造を分断して良いのだろうか? いつもそのように思っている。学問上の整合的な認識(体系構成)に都合がよいからといって,哲学的・科学的真理(行為は目的性をもっている・行為の主観的要素-目的性-と客観的要素-身体の動静-とを切り離すことは正しくない)を脇に置くというのは,やっぱりおかしい。
 私は,司法試験受験生時代,主に団藤と平野の教科書を読んでいた。体系は団藤・実質は平野(結果無価値 偶然防衛は未遂)といういいとこ取りだ。福田平先生は読まなかった。だから,受験生時代は,目的的行為論を採用する余地はなかった。
 しかし,司法試験合格後,余裕ができた後に色んな本を読んだり,実務上の問題を考えたりすると,やっぱり目的的行為論が正しいのじゃないか,目的的行為論は,人間とか行為とか不法というものを正しくとらえているのじゃないか,行為の主観面と客観面を切り離すというのは,ものすごくアートな考え方じゃないのかと思うようになった。
(以下続く)
 外国人の学者が3人来るが,みんなドイツ人だ。渥美東洋先生 また怒り狂うのだろうか?