カントとヘーゲル

 カントとヘーゲルとは,セットで語られる近代哲学者である。私は,若いころカント(及び新カント学派)は熱心に読んだが,ヘーゲルはほとんど読まなかった。何故そうかというと,私たちの年代(40代中頃)の哲学・法哲学愛好者は,ポパー,トーピッチュ,碧海純一等の分析哲学の影響を色濃く受けているからである。周知のとおり,碧海純一ポパーもカントを高く評価している反面,ヘーゲルをこれでもかと貶している(「開かれた社会とその敵」外)。だから,ヘーゲルを食わず嫌いになることが多い。
 反面,私より一世代上の先輩方(いわゆる70年全共闘運動で,「反戦」グループ等)は,ヘーゲル愛好者が多いように思う。これはもちろん,当時の時代思潮の影響だろう。マルクスと向き合うとやはりヘーゲルを読まないといけないみたい。昨年の11月ころ,新左翼の人-20代-のアパートに泊めてもらったのだが,ヘーゲルの歴史哲学が置いてあった。新左翼の後輩から,「ヘーゲルの「歴史哲学」ってどう思いますか?」と質問を受けたので,「ドイツのマルコポーロみたいな本だね。「ヘーゲルは見てきたようなウソを言い」という諺もあるでしょう」と返事をした。

 実際,20〜30歳くらいの頭には,カントは比較的理解しやすいし,興味を持てる問題を論究している(先験的・後天的,分析的・総合的)。真剣に悟性や理性を働かせれば,認識論的な謎は理解できるに違いないという感じ。その反面,このような年代の頭-特に法律学に毒された頭-ではヘーゲルは,とても理解しにくい。
 この年になってヘーゲルを少しずつ読んでいるが,カントのような生真面目で,ひたすら理詰めの世界も良いが,ヘーゲルみたいな壮大な「与太話」はある程度人生・社会体験がないと,理解できないと思う。
 ヘーゲル法哲学って,生真面目な態度で大講堂で講義される哲学ではない。哲学教師が,内輪のゼミナールを終えた後,学生を引き連れてコンパに繰り出し,その辺の飲み屋で大酒を飲みながら,朝まで哲学的ホラ話をしている感じ。そういう与太話,ホラ話の中に,案外真理は隠されているのかもしれない。