2 私の法哲学の先生

 私の学部生時代(3年)の法哲学の先生は,井上茂の弟子であった。「教科書はないんですか?」と先生に聞いたら,「ない。どうしてもといわれたら法規範の分析(井上茂)を読んでほしい」と言われた。で,生協で教科書を買ったら横書きだった(松阪佐一(有斐閣)の教科書みたいな安っぽい造本で,ちょっと立ち読みしてみたら,やっぱり松阪佐一みたいに平板な文体でグジャグジャ書いてあった)。英単語が沢山書いてあり,読みにくそうな本だった。英単語を引用する便宜として横書きにしたのかも知れない。法律学の教科書で,横書きの嚆矢は井上茂ではないだろうか? 教科書は,J.オースティンの紹介から始まっていた。要するに「<法>と世上呼び習わされているもの」について,分析的に検討が進められ,概念の区分けが行われている。
 法律学に向いてない人は,確かに,この種の議論で挫折するだろう−leipniz0氏はその極端な例ではなかろうか?−。普通の感性をもった若者には,はっきり言ってつまらないから・・・・。
 民法総則で言えば,「法律行為と準法律行為,法律行為と意思表示,法律要件と法律事実,法律事実としての意思・感情・事件等々」みたいな議論,刑法総論で言えば,「行為と構成要件,構成要件と構成要件要素,構成要件と構成要件事実,主観的構成要件要素と客観的構成要件要素,構成要件的行為と構成要件的結果」みたいな「概念の区分け」をもっと味気なく・抽象化したような論述であった。
 しかし,オースティンのような議論の進め方は,思考性癖が特殊であった私には,なじみやすいものであった。
 もともと,私には,−恐らく生来の−論理的・概念的・哲学的な思考癖があった。大学1−2年生のころ民法総則・刑法総論・論理学を勉強することによって,生来の思考癖はますます助長した。
 私の法哲学の先生の講義は,オースティンから始められ,ケルゼンに時間を費やし(ラートブルッフに寄り道し),ハート(デブリンとの論争が主),最後は,なぜかスカンジナビアリアリズム(慶応大学の佐藤節さん?)に力を入れられた。学年末試験の出題は「法規範の妥当性」であった。
 先生の講義や指導は,今でも私の読書傾向・思考癖に深刻な影響を残存させている。それは,次の項で明らかにする。