1 序

 私は,法律学法哲学を含め),神学,哲学の研究を職業としていない。しがない法実務家に過ぎない。しかし,実務家を職業としつつも,法哲学キリスト教神学への関心は,持ち続けており,このブログでも折々,その方面の管見を書いている(やはり弁護士ブログの中では異質だろう。逆に私自身,熟読したり・感心したりするブログというのは,実務家より研究者−法律学に限らない,また職業的研究者に限らない−の方が多い)。
 私の事務所の書棚のかなりの部分は,法哲学・神学(後は楽譜)がそのスペースを占めている。
 そうはいっても,法実務で忙しい日常を過ごしてばかりいると,忙しさにかまけて,学問的求知心が鈍磨し,ある人の言い方を借りれば「脳が腐って」しまうことになりかねない。で,たまには,真面目に根本的問題を考えてみようと思った訳である。
 このような論考を書こうと私を動機付けた人たちに感謝を捧げる次第である。就中,東大法学部生である自然法の騎士・伝道者leibniz0(現revolu)氏,その篤実な助手であるhan-taisei氏は,そのお名前を特に掲げて,感謝の意を表する。

 私は,従前のエントリにおいて,次のように書いた。
<leibniz0氏における自然法「思想w」と実定法「思想w」並びにこれらの「思想w」がナイーブな中高生に与えた影響>について,ブログにてエセーを書いてみたいと思っています。何ら学問的価値はないと思うけれども,一種の社会学的な言説原因分析になるかも知れません。

 私は,これから自然法に関して管見を披露するものであるが,それは,上記の約束を多少なりとも果たそうとするがためである。
 <自然法「思想w」,実定法「思想w」>と評価した氏の思想をば,「なぜ,かくも斜に構えて批判しようとするのだ」と訝しむ読者もいるかも知れない。この疑問はある意味もっともなものであろう。しかし,他者に対して学問的,根本的批判を加えようとする以上,批判の対象となる者がいかに「イノセント・ナイーブw」であるとしても,私は,情けを掛けることはない。
 私は,かつて−10年以上前だろうか?−「nifty・fshiso(現代思想フォーラム)において,宗教(神学),法哲学・法思想,実定法解釈(学)に関して,論敵と論争したことがある−「法律フォーラム2」の「法哲学の部屋」も同様であった。「こいつは,wwwだな」と思っても,私は,属人攻撃はせずザッハリッヒに議論を重ねた。そのような議論で自分自身の思想・思考癖・予断を反省する契機は少なくなかった。

(続く。できるだけ続ける)