3 法哲学の先生に頭をぶん殴られたこと

 N先生の講義や指導(質問に対する回答)で,今でも憶えていることが2個ある。ひとつは,「自然法的思考−その哲学的前提−」,ひとつは「当為命題」である。
(1) 自然法論の認識論的基礎
 私は,自然法論者が前提としている哲学的基盤−事実・価値,存在・当為一元論−がどうしても理解できなかった。
 で,N先生に質問した。「存在から当為は導き出せない」「事実から価値は導き出せない」というのは,当たりまえのことじゃありませんか? そんなことは議論するまでもない。それにもかかわらず「自然法論者」と言われている人が「存在から当為は導き出せる」「事実と価値とは分かちがたく融合している」と考えている。私は,そのような一元論的考え方が理解できないのです。<間違っているか正しいか>以前の問題として,理解が全然できないのです。
 このようにN先生に質問した。
 N先生は,以下のように回答された。

 Barl君! この教室と廊下との間にドアがある。そのドアは,開いている。一元論の考え方の人は「このドアは開いているべきである。故にこのドアは開いている」と考えるのだよ。ともかく,そのように考えている人もいるのだ。私にもそのような考え方がなぜできるのか,なぜそのような考え方が学問的にあり得て,現に支持者がいるのか,実を言うと理解できない。
 
 N先生の回答に私は,満足したのではなかったが,なぜか,今でも記憶から離れないインパクトがある。その後,存在論自然法(どちらも主としてカトリック哲学)の勉強をして,「確かにそういう哲学もあるかも知れない」と思い始めた。最近は,宗岡嗣郎先生の「犯罪論と法哲学」にはまっている。

(2) 「当為命題」の扱い方
 ケルゼンや法実証主義を勉強をし始めてしばらくしたら,良く分からない問題があった。私はN先生に質問した。

 実定法(学)は「人を殺すべからず」「約束は履行せらるべし」「他人の物を盗んだ者は10年以下の懲役に処せられるべし」みたいに,或いは「ユダヤ人は,見つけ次第虐殺すべし」「在日朝鮮・韓国人に選挙権は与えるべからず」みたいな「べき・べからず」命題の集合体なのです。つまり,私たちが(ケルゼンが)考察の対象とする「実定法(学)」は,価値命題の集合体なのです。ケルゼンはそのような当為命題・価値命題の考察に際して <「価値」を一切そぎ落とすべし>と言っているのです。考察の対象が価値的なのに,考察の方法が非価値的なんてことはできるのですか?

 N先生は次のとおり回答した。「ケルゼンは,<もし「○○」であるならば,「××」すべし>という命題(実定法)の生成過程・妥当根拠を研究していたのだ。○○と××は何でも良い。○○と××との間に,理性的連関は全くない。○○と××はどのような単語を入れても良いのだ。<鶏がウンコをしたら卵を10個産み落とすべし>でも<寝坊をさせた小学生の母親は,卵焼きを3個作って,ショパンノクターンを弾くべきである>でも良いのだ。ケルゼン的思考法は,「べし(法)」の妥当性をひたすら形式整合的に問題としているだけに過ぎない。「べし命題」が妥当する根拠は,当該命題の「内容」「実質」「理性適合性」「正義に合致しているか」ではなく,当該命題の生成過程(「理性」ではなく「意思行為」による授権)にあるのだよ。」といわれた。それで,ケルゼンとかシュミットとか,清宮四郎とか,佐藤工事幸治が述べていることが一遍に分かった。「かのやうに」という思考法を,N先生の回答から悟ったのだ。