4 自然法学は自然な法学,実証主義はアートな法学

 「創文」という雑誌がある。大きな本屋さんで無料で配布されていたり,創文社の書籍を買うとおまけ(PR誌)についてくる30頁前後の雑誌である。キリスト教書店に置かれていることも多い。
 数年前,某地方裁判所佐渡支部の待合室に「創文」が置かれてあったので暇つぶしで読んだ。

(「創文」について論及しているサイトがある。私と考え方の方向が似通っていて,とても興味深い。

http://renqing.cocolog-nifty.com/bookjunkie/2005/05/post_ae0a.html

 その雑誌のエセー(学術的な雑文)で「自然法学は自然な法学」という論考が掲載されていた。誰が書いたのかはもう思い出せないのだが,たぶん,創文社系の学者だと思う。そのエセーの要旨は大略以下のようなものであった。
 
1 ケルゼンは,「法規範の妥当性の判定に当たっては,あるいは,法規範の解釈に当たっては,政治的,道徳的,或いは社会学的な思考を一切混入させてはならない」と述べている。このようなケルゼン的な考え方を徹底すると「すべてのユダヤ人は見つけ次第殺せ」・「朝食のご飯には必ず納豆を掛けてこれを食するべし。これに違反した者は,親子共々懲役20年に処する」も妥当な法規範になってしまう。

2 しかし,このような没価値的思考法は,ものすごくアーティフィシャルなもの(非自然的なもの,不自然なもの)であろう。法解釈学もそうだが,私たちは日常生活において,価値的思考法・価値判断を素朴にしている。その際,「私のこの価値判断は当たり前で,自明なものだ。人間としての良心を持っていれば,私だけでなく,他の人も同じような判断をするはずだ」ということを当然の前提としている。

3 だから,およそ人間的存在(神のペルソナの似姿である理性的人格)には(神から与えられた)理性がそのペルソナに残存しているはずである。法実証的な思考法は,人間が本性的に内在している「理性」「良心」「人間の本性(神の似姿)」を殊更に「人間的判断」から切り離すような著しく非自然な思考法である。自然法は,人間の自然な思考法に則したものである。だから,理性は客観的に存在する?