高橋薫子様が新潟にいらっしゃる件

 今年の3月25日に高橋薫子さんがりゅーとぴあにいらっしゃるので,事前にいろいろ調べてみました(ハート 6000円くらいの花束を買っていこうと思います)。私の妻のピアノ教室発表会の2日後なので,妻に相談したところ,「会場の駐車場の警備をしてくれたら行っても良い」と許可を受けました。寛容な妻なので助かります。
りゅーとぴあの楽屋廊下の壁に直筆された薫子様のサイン。ちなみに3カ所サインが残されています)



http://www.ryutopia.or.jp/schedule/10/0325c.html

 薫子様は新宿の音楽院で個人レッスンをなさっているようです(大学か大学院で講師もなさっているので,おひそがしいだろうな)。


http://www.maestrora.jp/room/
 


 

 同じ音楽院で林美智子さん(ケルビーノがお得意の 高音を出すとき目がクリクリするメゾの人)が教えているので,「美人実力派の声楽の先生が多いなぁ。新潟から通ってみようかなぁ」と思ったら,ちょっと違いました。ちなみに私の刑法の先生は林美月子。

 ピアニストでなく声楽家の林美智子さんのサイトはこちら。

http://www.kicpac.org/music/profile/profile_hayashi-michiko.html

判決が有罪被告人に与える感銘力について

 本日午前中,私選刑事弁護事件について,判決言い渡し期日に立ち会った。

 この事件は,事実関係を争わず情状のみで勝負する事件であった。
 被告人はいわゆるヤクザ者であり-ヤクザ者とは言っても稼業は瓢湖白山神社等でぽっぽ焼きを売っているに過ぎない−前科前歴も芳しくなく,(保釈はされたが)実刑ギリギリの事案であった。被告人も実刑を覚悟し,愛してやまない娘さん(幼稚園児)の写真を持参し,法廷に臨んだ。しばらく娘に会えなくなるかもしれないと,被告人は考えていたのである。

 保釈された事件について実刑判決が言い渡される場合,刑務官・留置担当警察官が「お迎え」に来るのが通常である(どういう経緯で「実刑判決」を刑務官等が察知するのか-実務修習当時右陪席の人からそっと教えてもらったことがあるが,20年くらい前のことなので,忘れてしまった)。しかし当職が法廷に入ってみると「お迎え」は来ていない。取調を担当したマルボウの刑事さんが傍聴席にいるだけだった。だから,当職は「執行猶予だ。良かった良かった」と思ったが,判決言い渡し前にそのことを被告人に伝えるのもどうかなぁと思い,厳粛な緊張した面持ちで判決に立ち会った。

第343条〔禁錮以上の刑の宣告と保釈等の失効〕


禁錮以上の刑に処する判決の宣告があつたときは、保釈又は勾留の執行停止は、その効力を失う。
「模範六法 2008」(C)2008(株)三省堂

 判決は,「求刑そのまま執行猶予3年」であったので,改めてホッとした。判決を聴きながら,被害者への慰謝措置(商品券○万円の購入,慈善団体への商品券寄付),保釈面談,被告人の奥さんの涙ながらの証言が走馬燈のように浮かんできた。

 しかし,改めて,裁判官が朗読した判決を思い出すと,何とも感銘力がない。というか,内容が何もないのである。

主文 
懲役○年○月,執行猶予○年
認定した事実
起訴状記載のとおり
摘条
相当法条
(判決言い渡し後,執行猶予の説明,控訴権告知)

これだけなんだよね。たったの2分! こういう判決を「玄関開けたら佐藤の誤判ご飯」判決と言うのである

 別に,某裁判長みたいに長々と訓戒をして欲しいとはいわないけれども,せめて3分でも,いや,30秒でも良いから量刑の理由なり訓戒を賜りたいものである。

第221条(判決宣告後の訓戒)
裁判長は、判決の宣告をした後、被告人に対し、その将来について適当な訓戒をすることができる。
「模範六法 2008」(C)2008(株)三省堂

 そのような有り難い説示を糧として「裁判官の温情に決して欺かない」と心に誓いながら,悪いことをしそうになるたびに裁判官の温顔を思い浮かべながら被告人は,今後の更生生活を送っていくのだが・・・。



 閉廷後,取調担当の刑事さんは,被告人に「もう軽はずみなことをするな。酒を控えて健康に注意してくれ。何かあったら,俺に相談しろ。先生もご苦労様でした,今後もよろしく」と述べていた。この刑事さんの言葉の方が,裁判官の事務的な判決より,よほど重みがあった。

 どういったらいいだろう。刑事裁判官諸氏は,裁判員裁判ばかりに力を入れて,裁判員非対象事件(特に「その辺に転がっている情状事件」で手抜きをしているのではないだろうか?
 (大久保太郎先生−元東京高裁部総括−から「最近の弁護士・裁判官への憂い」を記載した直筆の私信をいただいた。後日このブログで紹介する)

カントとヘーゲル

 カントとヘーゲルとは,セットで語られる近代哲学者である。私は,若いころカント(及び新カント学派)は熱心に読んだが,ヘーゲルはほとんど読まなかった。何故そうかというと,私たちの年代(40代中頃)の哲学・法哲学愛好者は,ポパー,トーピッチュ,碧海純一等の分析哲学の影響を色濃く受けているからである。周知のとおり,碧海純一ポパーもカントを高く評価している反面,ヘーゲルをこれでもかと貶している(「開かれた社会とその敵」外)。だから,ヘーゲルを食わず嫌いになることが多い。
 反面,私より一世代上の先輩方(いわゆる70年全共闘運動で,「反戦」グループ等)は,ヘーゲル愛好者が多いように思う。これはもちろん,当時の時代思潮の影響だろう。マルクスと向き合うとやはりヘーゲルを読まないといけないみたい。昨年の11月ころ,新左翼の人-20代-のアパートに泊めてもらったのだが,ヘーゲルの歴史哲学が置いてあった。新左翼の後輩から,「ヘーゲルの「歴史哲学」ってどう思いますか?」と質問を受けたので,「ドイツのマルコポーロみたいな本だね。「ヘーゲルは見てきたようなウソを言い」という諺もあるでしょう」と返事をした。

 実際,20〜30歳くらいの頭には,カントは比較的理解しやすいし,興味を持てる問題を論究している(先験的・後天的,分析的・総合的)。真剣に悟性や理性を働かせれば,認識論的な謎は理解できるに違いないという感じ。その反面,このような年代の頭-特に法律学に毒された頭-ではヘーゲルは,とても理解しにくい。
 この年になってヘーゲルを少しずつ読んでいるが,カントのような生真面目で,ひたすら理詰めの世界も良いが,ヘーゲルみたいな壮大な「与太話」はある程度人生・社会体験がないと,理解できないと思う。
 ヘーゲル法哲学って,生真面目な態度で大講堂で講義される哲学ではない。哲学教師が,内輪のゼミナールを終えた後,学生を引き連れてコンパに繰り出し,その辺の飲み屋で大酒を飲みながら,朝まで哲学的ホラ話をしている感じ。そういう与太話,ホラ話の中に,案外真理は隠されているのかもしれない。

ミネルバのフクロウ(続き)

 今日が実質上の仕事始めで,10時ころ事務所に出勤したら,X弁護士から電話があり,「ところでミネルバのフクロウの話なのだが・・・」と切り出した。「あぁ,(ワ)先生からクレームがあったという知らせかな?」と思った。しかし,それはどうもおかしいと会話しながら考えた。(ワ)先生は,クレームを言うのならば直接事務所に乗り込むなり,弁護士会館に呼びつけてガミガミものを言うタイプだし,(ワ)先生のクレームをX先生が取り次ぐというのもちょっと変な構図だから・・・。
 そもそも,(ワ)先生とは昨日の新年祝賀会で2次会まで付き合い,私に対し,「酒の上のスキャンダルだけはもう絶対起こすな」と散々忠告していたのだが,ミネルバのフクロウの件は話題にならなかった(たぶん(ワ)先生もこのブログを見ていると思う)。
 X先生の用件というのは,

1 「(ワ)先生はそのような挨拶を本当に述べたのか」
2 「ミネルバのフクロウは云々」という言葉は,ヘーゲルの創案のなのか,それともギリシア神話等に典拠を持つ古くからのことわざなのか?
3 私がエントリで転載した論文の出典であった。
 
 「正月早々から,ヘーゲルとか弁証法とかの話というのも鬱陶しいなぁ」と思ったのだが,まぁ自分の知る限りのことはお返事した。
 私も「ミネルバのフクロウは,黄昏とともに飛び立つ」という言葉がヘーゲルの創案なのかそれともヘーゲルが諺を自著(法哲学綱要)に引用したものなのか,調べてみたが今ひとつ分からなかった。
 私が先のエントリで引用した論文の典拠は,電話で教えて差し上げた。危ない文献なので,ここでは書けない。


| 止揚って、 
| 木枯らし紋次郎が悪人を爪楊枝で止めることだよね。 
\ 
   ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
          ホー 
       ∧ ∧ ホー  ∧ ∧ 
       ( ´∀`)     (・∀・ ) 
      / ノ  .)    / ノ  .)ホー  
      //  ノ     //  ノ ホー 
  ――― イイ ―――― イイ ――― 
  ̄ ̄ ̄/,,,,/ ̄ ̄ ̄ ̄/,,,,/ ̄ ̄ ̄ 
               ∧ 
   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 
   | 揚の字が違うだろ。 
   |

ミネルバのフクロウは黄昏とともに飛び立つ

 言わずと知れたヘーゲルの言葉である(「法哲学」の序文)。(ヘーゲルの「法哲学」(長谷川訳他)は自宅の書斎にあるので,今(事務所)参照できないが,後刻このエントリは補訂する予定。)
 弁護士と地元選出の国会議員との懇親会の際,当地のすごく偉い弁護士さん-(ワ)先生としておこう-が冒頭の挨拶でこの言葉を引用し,「新しい時代には新しい哲学が必要だ」みたいなことを述べ,いわゆる「新しい時代-裁判員制度その他のいわゆる「司法改革」-」を礼賛していた。別にいわゆる「司法改革」を礼賛するのは,彼の自由なのでその辺はどうでも良いのだが,「ミネルバのフクロウは黄昏とともに飛び立つ」って「新しい時代には新しい哲学」という意味だというのは,浅学非才の身ゆえ,(ワ)先生のお言葉で初めて知った(「新しい金玉には新しい玉袋」という言葉なら聞いたことはあるのだが・・・)。

 私は,人生40数年の間(ヘーゲル-岩波文庫の小論理学-を最初に読んだのは,高校生のころ。その後「歴史哲学」もちょっと読んだが,あまりにメチャクチャなので,以降ヘーゲルは止めて,大学生になってからはポパーとかを読み始めた),この言葉は「学問とか哲学なんてものは,所詮,後知恵の屁理屈みたいなもので,実践には余り役に立たない」みたいな意味だと何となく考えていたので,(ワ)先生の深遠な挨拶によって,蒙を啓かれてその学恩に感謝を捧げる次第である。

 今日は,ある事件の弁護方針確立のため,事務所である人の文献を読んでいた(どんな文献を読んでいたかは,検察官や公安警察にばれると問題なので,書かないこととする)。
 そうしたら,ミネルバのフクロウを引き合いに出したある論文が見つかった。以下引用。

 ミネルバの梟は、日暮れてとびたつ

ミネルバの梟(ふくろう)は、日暮れてとびたつ」という諺(ことわざ)があります。「ミネルバの梟」とは学問とか真理とか研究をさし、「日暮れて」は「人間の実践的行為が終わったあと」をさしています。つまり、人間の歴史的行為が終わったあとに学問は発生するという意味です。つまり歴史を選択し決定するような行為は、あるいはそういう時代がはじまっているようなときには、既成の理論よりむしろおこっている事柄の方がもっともっと大きな意味をもっている場合が多いのであります。

ミネルバの梟(ふくろう)は、日暮れてとびたつ」というのは,ヘーゲルの言葉とばかり思っていたのだが,諺(ことわざ)だったのか・・・。知らなかった。

参照
http://mentai.2ch.net/philo/kako/1007/10071/1007130418.html

怨憎会苦・愛別離苦

 今日は,中学校の同級生のお葬式だった。故人のことをうっすらと覚えているのだが,中学時代吹奏楽部だったっけな。彼は,指揮とかサクソフォンをやっていたような記憶がにある。
 お葬式は,浄土真宗のお坊さんが仕切っていた。きっちりとテンポが狂わない4分の4拍子のお経が快かった。坊さんの「白骨のご文章」を拝聴して,人間の死と生とに思いをいたした(マーラーの復活が頭の中でなっていた。)。
 浄土真宗の葬式とキリスト教プロテスタント)のお葬式とは,雰囲気が似ている。儀式的要素がそれほどないこと。司式者の説教(法話)があること。

 坊さんは四苦八苦を主題として,「愛別離苦」「怨憎会苦」「蓮の花(祭壇の飾り物)」を解説された。
 「蓮の花は,娑婆(この世)を象徴しています。蓮は泥を吸っています。この世は泥のようなものです。私たちは,泥の中で生きています。でも,泥を吸って,とても綺麗な白い花を咲かせるのですね。」

 「人は愛する人と必ず別れることになります。そのような別れを通じて,人は,優しくなります。絶対に絶対に優しくなります。」

 「人は憎んでいる人と必ず会うことになります。それは,絶対に避けられないことです。そのような出会いを通じて,人は強くなります。絶対に強くなります。」

 と言うようなお話だった。人生って,そういうものかもしれないな。